ちょっとお堅いテーマですが、ちょっとだけお付き合いくださいね。
そもそも氣づきとは何なのでしょうね?
「今まで知らなかったことを知ること」
「情報として知っていたけど、新しい解釈を知ること」
となるのでしょうか。
あなたはどう思いますか?
・・・・・・・・・・・・
実際にメルマガやブログ、それから著書や講演を通していろいろな話をさせていただいているのですが、読者や参加者から「岩元さん、氣づきをありがとうございました」というコメントをいただくことがあります。
それ自体、情報を発信した側としてとても嬉しいことですし、やりがいも感じます。
そういう思いをさせていただけるということで、コメントをしてくれた方々には心から「ありがとう」と感謝しています。
それと同時に「はて、氣づきを得たと言ってくれることはありがたいのだけれど、はたして読者の言う氣づきって何なのだろう?本当に、わたしが伝えたことは読者のためになっているのだろうか?読者の人生や仕事をより豊かなものにしているのだろうか?」という疑問がでてきました。
そこで、氣づきとは何だろう?と自分なりに考えてみたのです。
そして、考えてみた結果、つぎのように氣づきを定義することにしました。
『氣づきとは、行動の変化を伴う発見である。発見は見聞きすることでは得られない。見聞きした情報は、行動を促すきっかけにすぎない。行動し、経験してはじめて発見できる。その発見が「氣づき」である。』
このように定義すると、本を読んだりセミナーに参加して「氣づき」を得ることはないということになります。
本やセミナーで得るものはすべて「情報」であり、それは新たな行動をするきっかけにはなりますが、まだこの時点では「氣づき」と呼べるものではないのですね。
知った情報に基づいて行動してみたら、結果(フィードバック)を得ます。
この結果から、情報と結果とのリンク(関連)を発見します。
そのリンクの発見こそが、氣づきなのですね。
そうして得た氣づきは、自分の中に事実として腑に落ちます。
こうすると、人は事実という確信に基づいて行動する動物ですから、その氣づきに基づく行動を継続して行うようになります。
まさに、氣づいたことで、行動パターンが変わるわけです。
そうすると人生や仕事の結果に変化が現れるようになるわけですね。
行動が変わったとき、「氣づいた」とはじめていえるのです。
本を読み、セミナーに参加して、氣づきを得たと勘違いしてしまうと、新しい情報を得るだけで満足してしまう知識オタクになっちゃいます。
書棚にはたくさんの本が並びますが、その人の人生に変化が起きない。
こういうことに陥らないように、注意が必要です。
さてさて、よく読者の方から「岩元さんは『氣づき』と書くとき、『気』ではなく『氣』と書きますが、何か理由があるのですか?」と尋ねられます。
もしかすると、あなたも同様に疑問をもたれているかもしれないので説明しますね。
わたしが尊敬している合氣道「氣の研究会」の創始者である藤平光一先生の影響で「氣」の文字を使うようになりました。
そもそも「氣」はエネルギーです。
エネルギーはこの天地に無限に存在し、かつわたしたちを含めすべての存在はエネルギーです。
わたしたちの生命活動とは、天地に存在するエネルギーをわたしたちの身体の中に出し入れして、交流している活動をさします。
なので、エネルギーは体内に貯めおくものではなく、体外に発し、そして体内にまた受け入れる・・・この繰り返しです。
だからこそ、エネルギーである「氣」は外に発するものであって、内に閉じ込めるものではないのですね。
そこで「氣」の文字を考えてみましょう。
「米」は、まるでエネルギーが八方に発しているかのように見えますよね。
それに対して「メ」は、閉(〆)めるというように、閉じ込めるように見えます。
それからわたしたちアジア人にとって、お米はまさに主要なエネルギー源でもあります。
なので本来的に「氣」という文字が表記として、ふさわしいということなのです。
なので、翻訳を除いて、わたしの著書では「氣」の文字を用いますし、メルマガやブログでも「氣」を用いています。
それと、わたしがお伝えしたいことが、あなたに伝わりますようにという想い(エネルギー)を送るという意味もあって、わたしは好んで「氣」の文字を使っています。
たとえばパソコンで「げんき」と入力して変換すると、最初に「元気」と表示されます。
これをわざわざ「き」という文字の部分だけを変換して「氣」を表示するようにすることで、そのたびにわたしは読者に想いを伝えることを意識することができます。
読者に「心を配る」ことを意識する瞬間でもあります。
今日1日、あなたが元氣でお過ごしになれるよう願っています
ありがとうございます。
]]>ちょっとお堅いテーマですが、ちょっとだけお付き合いくださいね。
そもそも氣づきとは何なのでしょうね?
「今まで知らなかったことを知ること」
「情報として知っていたけど、新しい解釈を知ること」
となるのでしょうか。
あなたはどう思いますか?
・・・・・・・・・・・・
実際にメルマガやブログ、それから著書や講演を通していろいろな話をさせていただいているのですが、読者や参加者から「岩元さん、氣づきをありがとうございました」というコメントをいただくことがあります。
それ自体、情報を発信した側としてとても嬉しいことですし、やりがいも感じます。
そういう思いをさせていただけるということで、コメントをしてくれた方々には心から「ありがとう」と感謝しています。
それと同時に「はて、氣づきを得たと言ってくれることはありがたいのだけれど、はたして読者の言う氣づきって何なのだろう?本当に、わたしが伝えたことは読者のためになっているのだろうか?読者の人生や仕事をより豊かなものにしているのだろうか?」という疑問がでてきました。
そこで、氣づきとは何だろう?と自分なりに考えてみたのです。
そして、考えてみた結果、つぎのように氣づきを定義することにしました。
『氣づきとは、行動の変化を伴う発見である。発見は見聞きすることでは得られない。見聞きした情報は、行動を促すきっかけにすぎない。行動し、経験してはじめて発見できる。その発見が「氣づき」である。』
このように定義すると、本を読んだりセミナーに参加して「氣づき」を得ることはないということになります。
本やセミナーで得るものはすべて「情報」であり、それは新たな行動をするきっかけにはなりますが、まだこの時点では「氣づき」と呼べるものではないのですね。
知った情報に基づいて行動してみたら、結果(フィードバック)を得ます。
この結果から、情報と結果とのリンク(関連)を発見します。
そのリンクの発見こそが、氣づきなのですね。
そうして得た氣づきは、自分の中に事実として腑に落ちます。
こうすると、人は事実という確信に基づいて行動する動物ですから、その氣づきに基づく行動を継続して行うようになります。
まさに、氣づいたことで、行動パターンが変わるわけです。
そうすると人生や仕事の結果に変化が現れるようになるわけですね。
行動が変わったとき、「氣づいた」とはじめていえるのです。
本を読み、セミナーに参加して、氣づきを得たと勘違いしてしまうと、新しい情報を得るだけで満足してしまう知識オタクになっちゃいます。
書棚にはたくさんの本が並びますが、その人の人生に変化が起きない。
こういうことに陥らないように、注意が必要です。
さてさて、よく読者の方から「岩元さんは『氣づき』と書くとき、『気』ではなく『氣』と書きますが、何か理由があるのですか?」と尋ねられます。
もしかすると、あなたも同様に疑問をもたれているかもしれないので説明しますね。
わたしが尊敬している合氣道「氣の研究会」の創始者である藤平光一先生の影響で「氣」の文字を使うようになりました。
そもそも「氣」はエネルギーです。
エネルギーはこの天地に無限に存在し、かつわたしたちを含めすべての存在はエネルギーです。
わたしたちの生命活動とは、天地に存在するエネルギーをわたしたちの身体の中に出し入れして、交流している活動をさします。
なので、エネルギーは体内に貯めおくものではなく、体外に発し、そして体内にまた受け入れる・・・この繰り返しです。
だからこそ、エネルギーである「氣」は外に発するものであって、内に閉じ込めるものではないのですね。
そこで「氣」の文字を考えてみましょう。
「米」は、まるでエネルギーが八方に発しているかのように見えますよね。
それに対して「メ」は、閉(〆)めるというように、閉じ込めるように見えます。
それからわたしたちアジア人にとって、お米はまさに主要なエネルギー源でもあります。
なので本来的に「氣」という文字が表記として、ふさわしいということなのです。
なので、翻訳を除いて、わたしの著書では「氣」の文字を用いますし、メルマガやブログでも「氣」を用いています。
それと、わたしがお伝えしたいことが、あなたに伝わりますようにという想い(エネルギー)を送るという意味もあって、わたしは好んで「氣」の文字を使っています。
たとえばパソコンで「げんき」と入力して変換すると、最初に「元気」と表示されます。
これをわざわざ「き」という文字の部分だけを変換して「氣」を表示するようにすることで、そのたびにわたしは読者に想いを伝えることを意識することができます。
読者に「心を配る」ことを意識する瞬間でもあります。
今日1日、あなたが元氣でお過ごしになれるよう願っています
ありがとうございます。
]]>わくわくには、ものすごく共感します。
「わくわく」とはなにかというと、それをすることの意味とか意義を知ることによる高揚感です。それを言葉で表すと「わくわく」っていう感じになっちゃうんですね。
それは単に、氣分的に楽しいというレベルとは違います。
本質的なことを言えば、それが人のためになる、人を喜ばせることになることであり、それは天命にかなっているものということ。
ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、大真面目にそう思います。
「楽しい」は感情に基づくけれど、わくわくは感情の奥底にある魂に基づくものなのですね。
一見、苦労の多いようなことであっても、それをやることに意義を見いだせると、不思議な力がわいてきてわくわくしてくるのです。
そして、自分以外の力も働いて、まるで天が見方をしてくれるように運がよくなります。
天職という言葉があるけれど、それは天命にそった仕事のことで、天から与えられた職業のことを指すとわたしは考えています。
だからある意味、わたしたちが就いている職業はすべて天から与えられたものであり、天職と呼んでもいいのかもしれませんね。
それから、天職は何も1つである必要はないとわたしは思います。
それぞれの職場で働くことに、必ずや意味があります。
一見、困難や苦労の多い仕事でも、その意味を知れば、その仕事に意義を見出すことができて、そういう職業に就いていることにわくわくした氣持ちになれると思うのです。
そうして働いていると、周りから信頼され、スキルと同時に人格も磨かれ、運が拓けてきて、よいアイデアが浮かび、新たな仕事へとステップアップしていくことになる。
わたしたちは、人のために何か1つでも役立つことをする天命をもって生まれてきているわけですから、どんな仕事も必ず天命にそっていることを知り、今の仕事が人や自分にとってどういう意味を持つのか?どういう価値を提供しているのか?を知ることが大切です。
だから今の仕事をおろそかにしてはいけないのですね。
まずは今の仕事のお客様や仕事仲間や自分にとってどういう意味があるのか?を知ることが大切なんだね。
そして、働く意義を知ることで、わくわくして一生懸命仕事をする。わくわくしながら働けば、とても楽しくなります。
そう、わくわくして働いていく中で、その仕事を好きになっていく・・・これが正しい好きなことを仕事にするという意味なのではないかとわたしは考えています。
どんな仕事に就きたいか?どんな事業に着手したいか?・・・いろいろ悩ましいことではあります。
このとき、最初から完璧に自分の好きなことにマッチした最高の事業を探そうとしたら、これはなかなか大変で、「これだ!」というものを見つけるのは難しいです。
こういうときは、まずは氣楽にして、面白そうなことを考えてみるとよいですよ。
仕事にするという視点ではなく、何か面白そうなことを想像してみるのです。
そうすると、いろいろなアイデアが出てくるでしょう。
つぎに、それらのアイデアについて、それぞれの仕事が社会(人)に与える意義を考えてみてください。
それぞれのアイデアがもつ、社会的な意義が見つかったとき、その実現をイメージして、一番わくわくする氣持ちがつよいものを選んでみてはどうでしょう。
あなたの中の素直な心(魂)がわくわくを感じた時、それがあなたの天命にあった仕事だと思います。
ありがとうございます。
]]>約3週間近くの日本出張を終えて、アメリカに戻ってきました。
日本滞在中にブログを書こうと思っていたのですが、思うように時間が取れず、今やっとこうしてブログを書く時間が取れました。
日本滞在では、本当に多くの方々とお知り合いになる機会を得ることができてとても充実していました。
ありがたいことです。
それと桜が満開の日本は本当に美しい国だと再認識しました。
特に4月2日の名古屋城での花見は最高でした。
4月1日の名古屋は強風に見舞われたのですが、2日はうってかわって快晴、しかも暖かな陽氣、そしてもちろん桜は満開。
背景には、存在感のある名古屋城を見ながらという贅沢このうえない花見になりました。
そしてその花見をご一緒させていただいたのが、「たまごボーロ」で有名な竹田製菓の会長であり、数十社以上の日本の上場企業の大株主で日本一の個人投資家として著名な竹田和平さんでした。
午前10時から花見をはじめて午後6時まで合計8時間ご一緒させていただいたのですが、とても楽しかったです。
何が楽しいって、竹田和平さんと一緒にいるだけで楽しい氣分になるんですね。
常に笑顔で話をしながら、頻繁に大きな声で笑う姿に、元氣のパワーがモリモリ。
ご一緒しているだけで、あっという間に8時間が過ぎていた・・・そんな楽しい1日でした。
いろいろと貴重なお話や教えを受けたのですが、その中の1つをご紹介したいと思います。
それは「徳を貯める」こと。
わたしたちは「貯金(お金を貯める)」という言葉についてはよく使いますよね。
これに対し「貯徳(ちょとく)」は、和平さんの創った言葉です。
和平さんは、今のような混沌とした世の中では、「徳」を持つことがとても大切だと言います。
「徳を貯める」・・・と聞いても、いまいちイメージがわかないかもしれませんね。
説明します。
徳とは、人徳と言うように、周りの人から尊敬され、愛される、高い人格を意味します。
こう言うと、何やら徳をもつことは特別な人のことを指すように思えるし、また徳をもつことがとても難しいことのように感じられるかもしれません。
しかし、そんなことはないのです。
案外と簡単に誰でも徳をもつことができるようです。
和平さんは徳を持つには、感謝する心を持つことだと言っていました。
他人に対して感謝し、それを相手に伝えることが徳を積むことになるのだそうです。
どういうことかもう少し説明させていただきますね。
あなたが誰かに感謝するとしますね。
そうすると、感謝された人は、感謝してくれたあなたに対して感謝の心が起ります。
つまり、こちらが感謝すると、相手から感謝を受けることになります。
これは「与えると返ってくる」の法則が働くからです。
つまり、周りの人に感謝の氣持ちを持つ人は、人から感謝される人でもあるわけです。
そこで考えてほしいのですが、人から感謝される人というのは、それだけ「徳のある人」ということになります。
さて、ここで「徳のある人=感謝する心を持つ人、かつ他人から感謝される人」だと定義します。
これを商売に応用してみますね。
商売の成功は「お客さまに徳を施すこと」で実現できます。
お客に徳を施せば(=お客さまが価値と認めてくれるものを提供する)ほどこすほど、お客さまの心に感謝の氣もち(徳)が貯まっていくのです。
具体的には、お客さまへの心配りやおもてなしのサービス、付加価値の高い情報などを提供することで、お客さまはお店に対して感謝の心をもつようになります。
それはつまり、感謝の心(徳)を持ったお客さまの誕生を意味します。
徳の高い人(お客さま)は、誰(お店)かが何かを必要とすると、協力して助けてくれるものです。
ちょっと抽象的な表現なので、わかりにくかったかもしれませんね。
もうちょっと噛み砕いて説明しましょう。
商売でお客さまに徳を施すとは、お客さまがこちら(お店)に感謝するような行いをすることを意味します。
お客さまにとって価値あることを提供することで、お客さまがこちら(お店)に感謝してくれるということです。
つまるところ、ファン客のことです。
ファン客は、お店にとっては徳の高いお客さまなのです。
ファン客になると、アンケートへの協力に応じてくれたり、改善すべき点を指摘してくれたり、新製品を発表するといち早く購入してくれたりします。
商売する者にとって、ファン客相手の商売は実に楽しくわくわくするものですよね。
ファン客には、もっともっと喜んでいただきたいですから、お客さまの期待以上のサービスを提供しようと心がけるようになります。
このように「徳を施す」ことを意識して、徳の高いお客さまをうみ、そうしたお客さまと商いをすることが、商売で成功する秘訣なのです。
とってもシンプル!
このように竹田和平さんの教えは、本質にのっとったシンプルなものばかりです。
わたしもこれまで数多くの成功者や先生といわれている方とお知り合いになりましたが、竹田和平さんは、とてもユニークな方だといえます。
とてもやさしく明るいエネルギーをもった方です。
一度会うだけで、虜(とりこ)にさせる人間力、器をもった方です。
わたしも和平さんの魅力にとりつかれました
このブログを読んでいるあなたもきっと和平さんの魅力に引き込まれることでしょう。
そして、人生や仕事にとって、とても貴重な知恵を学ぶことができると思います。
なので、機会があれば、あなたにも和平さんと会って欲しいと思います。
「でも、岩元さん、竹田和平さんといったらかなりお忙しい方なので、なかなか面会できないのではないでしょうか?」
確かに、和平さん自身は氣さくな方ですから、誰とでも面会してくれるでしょうが、物理的な時間の制約があるので、直接お会いする機会を持つことは容易ではないと思います。
それに、和平さんはめったに講演をしませんので、セミナーでも会うのは難しいかもしれません。
でも、ご安心ください。
あなたに和平さんから学びたいという真摯な意思があれば、和平さんの教えをしっかりと学べる方法がありますよ
しかも「無料(タダ)」で学ぶことができます。
徳を貯める(徳をつむ)=人間力を磨くための講座を和平さんがインターネット上に開講しています。
「貯徳問答講」と名付けたオンライン講座です。
現在、その第7期生の募集をされています。
受講生の中には、著名な作家や講師、経営者もたくさんいるそうです。
日本人として生まれた人に、日本が生んだ偉大な歴史上の人物の教えや和平さんの思想を教えています。
わたしもたくさんのことを和平さんから学びました。
このブログを読んでいるあなたであれば、きっと多くを学ぶことができるはずです。
ぜひ、「貯徳問答講」に登録して、講座を受講してみてください。
受講後、あなたがわたしに「岩元さん、『貯徳問答講』を紹介してくれて本当にありがとうございました」という声が聞こえてくるようです。
あなたの成幸を願って。。。
ありがとうございます。
Taka
メルマガやブログの読者から「岩元さんの話は、いつもわかりやすくて好きです。どうやったらあんなにわかりやすい文章が書けるのですか?」とよく聞かれます。
「読みやすい」と言われると、とてもうれしいですし、「わかりやすい」と言っていただけると本当によかったと安心しますし、喜ばしいです。
でも、特にどこかで文章の書き方を勉強したとか習ったとかということはありません。
強いていえば、たくさん本を読んだり、仕事柄よいセールスレターを読んでいるということくらいでしょうか。
でも、それがメルマガやブログを書くときの参考になっているかといえば、それほどでもないと思います。
さて、ではわたしが天性で文章を書くのが上手なのかといえば、それは絶対にあり得ない!です
というのも小学生のときに作文は大の苦手でしたから・・・
では、どうしたら読みやすい、わかりやすい文章が書けるのかというと・・・
それは「伝える」ことよりも「伝わる」ことを意識して書いているということでしょうか。
情報を発信するときに「伝える」ことにフォーカスしてしまうと;
−ほら、自分はこんなこと知っているんだよ(自慢)
−こうするのが正しいんだよ(お説教)
−あー書いててスッキリした(独りよがり)
−わかる人だけ、読んでくれればいいよ(傲慢)
こうした文章には読み手への配慮がみられません。
そして「情報を伝える」意思はあっても、「情報が生きる」ことを意図していないものになってしまいます。
「情報が生きる」という意味は、情報が使われること、つまり情報が価値を生むことです。
「・・・それって、どういう意味ですか?」
説明しますね。
情報が読み手に伝わると、読み手はその情報を何らかの形で別のものに転換してくれます。
例えば、願望を明確にすることの大切さが、読み手に腑に落ちる形で伝わると、その人は願望を紙に書き出して行動をはじめるかもしれません。
そうすると行動することによって結果(価値)が生まれますね。
または、とても感動的な話でそこには人生の知恵が溢れていたとしましょう。読み手がそれに感激すると、その話を友人やまわりの人に口コミで紹介してくれるでしょう。
そうすると情報が、どんどん循環して感動の輪が広がります。
こうして、その情報が生きるのですね。
では、情報が生きるようにするにはどうすればいいのか?と思われることでしょう。
わたしの回答は「伝わる文章」を書くことだと思います。
「でも、どうすれば伝わる文章が書けるのですか?」
そこで、わたしの考える「伝わる文章」の書き方のコツをお伝えしますね。
1.十分に時間を取ってリラックスした状態のときに書くこと
忙しい時には書かないことです。メールで「取り急ぎ」と書く人がいますが、あまりよろしくありません。
2.伝えたいことの内容を自分がよくわかっていること
自分がよく知らないことを書いても、読み手は混乱します。生兵法は大怪我のもとです。
3.読み手が伝えたいことについて無知である前提をもつこと
相手がこれくらいは知っているだろうと思って書くと、説明がついつい箇条書きになって、素っ氣ないもの最悪の場合、意味不明なものになってしまいます。
4.まるで12歳の子供に語りかけるつもりで書く
これは相手を見下すという意味ではなく、12歳の子に話しかけるとしたら、こちらがとても寛大な氣持ちになって忍耐強く話をすることができます。
5.話し言葉(口語)体で伝える
活字の言葉と話し言葉は、言い回しが違います。情報の伝達手段として活字を活用する人は少ないですが、誰もが会話によってコミュニケーションをとっています。そこでは当然ながら話し言葉なわけです。なので口語体で伝えるといいですよ。
それに口語体なら、いつも誰かに話をする感覚でとても自然体な文章になると思います。
6.会話形式にする
会話は一方通行ではないですよね。でも、文章を書くと一方通行になってしまいがち。だからこそ書く文章のときには、読み手とキャッチボールするような感覚で文章を書くように氣をつけましょう。
こう書いたら、読み手はどう返答してくるだろう?と考えて、その次の文章を考えるのです。
そうすると自然に文章の中で質問する文が出てきます。質問があると読み手もその質問について考えたりして、より読み手が文章に引きつけられるようになります。
7.一度書いたら、その後読みなおして、文章が自然なものになるまで何度も編集を繰り返す。
ちなみにこのブログでも、一度アップした後に文章を読み返して、修正が必要な時はすぐに編集しています。
どんな文章の天才も、一度で完璧な文は作成できないと思いますよ。
8.とにかく文章を書くのに慣れること!
これはあえて説明はいりませんよね。
文章を書くことについては、とにかく肩肘をはらないこと。リラックスして自然体で文章を書くことにつとめましょう。
これは試験ではないのですからね
そして、一番大切なのは誰のために書いているのか?ということ。
伝わる文章を書きたいのなら、読み手のために書くことを忘れないでくださいね。
読み手をケアして愛すること。
そして、読み手が文章を読んだ後に何らかの価値を生み出してくれることを願いながら、あなたのもつすばらしい情報や考え、想いを相手に与えてください。
ちょっと生意氣なことを書きましたが、参考になっていただければ幸いです。
]]>今日のタイトルを見て、あなたはどう思ったでしょうか?
自分のすばらしさを知って、他人のすばらしさを知る・・・
どういうことか説明しますね。
過去、数回のセミナーで行った演習のことです。
セミナー参加者にインデックス・カード(紙)を配って、それぞれその紙に夢を書いてもらいました。
その夢は、つぎの言葉の続きを埋める形で書いてもらったのです。
その言葉は
「いつか私は・・・」
でした。
そうすると、とてもすばらしい発見をします。
「いつか私は・・・」
自分は将来どういうことをする・・・という夢を書いてもらうわけです。
参加者はどういうことを書いたと思いますか?
試しに、この日記を読んでいるあなたも、ここで読むのをやめて、紙に書き出してみてください。
紙がない方は、目を閉じてリラックスして、考えてみてほしいのです。
「いつか私は・・・」その続きの言葉、あなたの夢・理想を埋めてみてください。
どうぞ・・・
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
いかがでしたか?
やっていただけましたか?
これって、とてもすばらしい氣づきがありますから、ぜひやってみてください。
ほら、先に読み進めるのではなく、さぁ、読むのをやめて、目を閉じてイメージしてほしいのです。
自分は、将来なにをしたいのか・・・・?
どうぞ・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
はい。いかがでしたか?やっていただけましたか?
やっていないなら、もう一度チャンスをあげます。
どうか、やってみてください。
・・・・・・・・・・・・
ちょっとくどかったかな。一度目で書いていた人にとっては、くどすぎましたね。ごめんなさいねm(_ _)m
実は、過去数回延べ300人以上の人に、この「いつか私は・・・」の演習をやっていただきました。
そして、毎回同じような発見があったのです。
それも、とってもすてきなすばらしい氣づきです。
どういうことかというと。
「いつか私は・・・」の続きをインデックス・カードに書いたものを、回収して、それを読み上げると、つぎのような文言がありました。
いつか私は;
「資産100億円を築いて、学校をつくりたい。その学校では、今の教育では教えていない人間の本質を教えて、すばらしい人材を100万人生み出すのだ。」
「アジア・アフリカの発展途上国に病院を建てて、貧しくて必要な医療を受けられない人を救いたい。」
「大きな船を所有して世界中を周り、格国の人たちとふれあい、彼らを船に招いて交流を図りたい。そして、文化の違いを認めながらも共通の意識を育んで、相互理解を深めたい。」
「財団をつくり、世界中にある地雷を撤去して、安心した生活を送れるようにする。」
「小さくてもいいから、幸せな家庭を築きたい。子どもたちがすくすくと育って、立派な成人になる。それが私にできる社会貢献だから。」
ここにあげたのは、ほんの一例です。
この夢を読んで、あなたはどう思ったでしょうか?
また、ご自分が書いた(描いた)夢に目を向けてください。
そこには何が書いてあるでしょうか?
実は、参加者の99%の夢に共通することがあったので、わたしは驚くと共に感動しました。
夢で語っている細かな内容は、それぞれ異なります。
けれど、共通していることがあるのです。
上記の夢の一例を再度読み返してください。
または、あなたの夢を読み返してみてください。
そこに、共通することがあるのではないでしょうか?
さて、共通していることは何か・・・お氣づきになりましたか?
・・・・・・・・・・・・
共通していることとは・・・
「皆、誰かに貢献することを夢としている」
のです。
セミナーの演習では、参加者の99%が、自分だけが幸せになったり、成功するといった自己完結の夢で終わっていない。誰か他人を幸せにしたり、誰かを救いたい、貢献したい・・・そういう夢を書いていたのです。
アインシュタイン博士は、ある記者から「人は何のために生まれてきたのでしょうか?」と尋ねられて、つぎのように答えたと言います。
「他人に奉仕するためだよ。他に何の目的があるっていうのかね?」
すばらしい言葉ですね。わたしも同感です。
わたしの著書『仕事が嫌いになった人へ Happy@Work』(PHP研究所)でも書きましたが、「好きなこと、楽しいこと」を仕事にすることを善しとする考えが流行していますが、わたしはそれに加えて「嬉しいこと」を仕事にすると、人生に充実感を味わえると思います。
自分一人が好きで、楽しいことを仕事にしても、それを喜んでくれる人がいなければ、その仕事はうまくいきません。
やはり、他人に喜んでもらえること、その喜んだお客様の顔をみて嬉しく思う・・・そういう仕事につけることが、人の使命のまっとうかもしれないと思うからです。
さて、先の演習を行ったセミナーで、わたしが参加者それぞれの夢を読み上げた後に伝えた言葉を、ここに再現します。
「このように、参加者の皆さんの夢は自分一人だけがよければよいというものではなく、他人を幸せにすること。それを壮大で、すてきな夢ばかりですよね?
この夢を書いたのは、マスコミに登場する成功者や偉人ではなく、今この会場の席に座っている一人ひとりなのです。
ほら、あなたの隣の人をご覧になってみてください。
一見、ごく普通の人に見えるその人の内側には、ものすごく大きくて、すばらしい価値ある『志』があるのです。
そうすると、その人を見る目が違ってきませんか?
そして、それはあなた自身にも言えることです。
あなたの夢をもう一度読み返してみてください。
どう思いますか?
・・・・・・・・・・
自分って、すごいなぁと思いませんか?
そういう夢を抱いている自分を、すごいと思いませんか?
思ってください。
褒めてやってください。
自信を持ってください。
すばらしい壮大な夢をもっている自分を、褒めちぎって、愛しましょう」
そして、この日記を読んでいるあなた。
あなたにも同じメッセージを贈ります。
]]>先日、車の中でわたしと息子が交わした会話です。
息子:「ダディ、女の子ってどうして男の子に、いろいろと悪口を言ったり、叩いたりするの?」
私:「ケヴィンにいろいろ言ってくる女の子がいるの?」
息子:「うん。僕だけじゃないよ。他の男の子にもだよ。」
私:「なるほど。あのね。男の子にちょっかいをだす女の子は、自分が注目を浴びたいと考えているんだと思うよ。氣を向けてほしいと思ってるんだよ。ほら、女の子ってきれいな洋服着たり、おしゃれをしているだろ。女の子はきれいになりたいんだ。だから、男の子に見てほしいんだよ。そして、それを褒めてもらったり、自分がきれいだということを分かってほしいのさ。」
息子:「どうしてそんなことするの?」
私:「さぁ、ダディも男の子だから女の子のことはよくわからないけど。1つだけ確かなことがあるよ。それは、ケヴィンにちょっかいをだした女の子は、決してケヴィンのことを嫌ってるわけではないということ。もしかすると、ケヴィンのことを好きなのかもしれないよ。
だから、今度ケヴィンにちょっかいをだしてくる子がいたら、その子のことを何か褒めてあげたり、話しかけてあげたりしてあげなよ。そうすれば、喜ぶと思うよ。ケヴィンが自分から話しかけてくれないから、ケヴィンと話をしたくて、何かちょっかいをだすのだろうからね。」
息子:「(ポッと赤らめた感じで)なんか変なの・・・。うーん・・・でも、なんか女の子の態度を思い出したら、だんだん嫌になってきた。どうして?やっぱり女の子はおかしいよ。よくないよ!
女の子なんて嫌いだよ!・・・もう、やだ!」
※息子は、女の子がちょっかいを出している場面を思い出したのでしょう。思いだしたことで、だんだん怒りたくなったのだと思います。
私:「ケヴィン・・・、ケヴィンはさぁ、ケヴィンが嫌いな映画のDVDを買いたいと思うかい?」
息子:「うーうん、買わない。」
私:「どうして?」
息子:「だって、面白くないもん。」
私:「ほーぅ、ケヴィンは面白くないものは見たくないんだね?」
息子:「あったりまえじゃん。見たくないよ。」
私:「でも、ケヴィンは今、面白くない、嫌なことを思い出してたじゃん。」
息子:「なにを?」
私:「ほら、女の子がケヴィンにいたずらすること。今、ダディにそのことを話していた時、女の子がケヴィンにちょっかい出した場面を思い出したから、嫌な氣分になったんだろ?」
息子:「・・・・」
私:「ケヴィンは、わざわざ自分が嫌いなこと、面白くないことを思い出して、嫌な思いになったんだよね。」
息子:「・・・・」
私:「ケヴィンは、自分が嫌いな映画のDVDは見たくないといったのに、自分が嫌だと思っていることを、そうやって思い出しては、自分で嫌な氣分になっちゃってる・・・。おかしいと思わない?」
息子:「うーん。そうね。」
私:「嫌なことを思い出して、ケヴィンはハッピーかい?」
息子:「うーうん、ハッピーじゃない。」
私:「じゃぁ、どんなことを思い出したらハッピーになる?」
息子:「楽しいこと。」
私:「そうだよね。楽しいことを思い出したら、ハッピーになるよね。ハッピーな方が、ずっといいでしょ?」
息子:「うん!」
私:「ケヴィン、これからは嫌なことがあるかもしれないけど、思いだしちゃ駄目だよ。だって、嫌なことを2度、見ることになるんだから。そんなのおかいよね。わかるだろ?」
息子:「うん!」
私:「じゃぁ、これからはどうすればいいかな?」
息子:「嫌なことは忘れて、ハッピーなことばっかり思い出すようにする!」
わたしたちは、一度観た映画がつまらなかったり、面白くなかったとき、それをビデオレンタル店で借りるなんてことは絶対にしないと思います。
それとは逆に、面白かったものは、後でレンタルしたり、DVDを買ったりします。
つまり、嫌なものは二度と見ないで、楽しかったものはお金を払ってまでもう一度観ようとするのです。
映画については、そうしているのに、人生においては楽しかったことよりも、嫌なつらい思い出ばかりを反復して思い出します。
これって、本当におかしなことですよね?
今回の日記で、あなたが1つでも氣づきを得ることができたら、嬉しいです。
日本の方の中には、アメリカ人をして「アメリカ人は、自己主張をする人が多い。それはアメリカの教育が、個を尊重し、自己主張するような教育をするからだ」と考えている人が多いようです。
先日も、わたしのコーチングの生徒から同様の質問がありました。
実は何を隠そう、わたしもアメリカに移住する前は、同じように考えていたものです。
でも、15年近く暮らしていると、そして子供たちがアメリカの学校に行くようになって、アメリカの実際がわかるようになってくると、わたしが勝手にイメージしていたものが、どうやら違うということに氣づいたのです。
子供をアメリカの学校に行かせているわたしの目から見たアメリカの教育ですが、この教育方法で自己主張する人を育成できているか?といえば、わたしははなはだ疑わしく思っています。
なぜなら、アメリカで日本以上に「自己主張しなさい」というような教育はなされていないように思うのです。
むしろ、昨今の日本の方が「個が大切。もっと自己主張しなければならない」と教えているように思えてなりません。
そもそも、同じアメリカ内でも教育方針は学校でそれぞれ違うし、かつ教師によっても独自の教育方針をもっていますからね。
なので一概に、アメリカの学校が全体よりも個を重視して、自己主張できる人材を育てているとは思えません。
また、教師のレベルは、残念ながら一般の公立校は、非常に低いといわざるをえません。
それと、アメリカでも全体(他人)への配慮を教えることの方が多いと思います。
また、子供たちをみていて、学校の教育によって彼らが自己主張をするように育っているかといえば、そうではなく、家庭生活の中で成長するにしたがい自分を主張することを覚えているように思います。
授業参観もこれまで実際に数回訪れて教育現場を観てみましたが、やはり、自己主張できる子供を育てるための特別なことをしているかといえば、そうではありませんでした。
実際に、アメリカ人の多くは、人前でスピーチをするのを恥ずかしいと思うようです。
日本の方がイメージしているアメリカ人の外交上手、スピーチ上手、堂々とした振舞いというのは、ステレオタイプのものであり、大半のアメリカ人とは異なります。
もちろん、そういう人もいるにはいますよ。
でも、それは日本でも同じですよね。
まぁ、どちらかといえばアメリカ人のほうが、人前で堂々と話せるタイプの人の割合が多いとは思います。
それからスピーチが上手な人だけをみれば、やはりアメリカ人のそれのほうが日本人よりも上手だと感じます。
特に国際政治の舞台での政治家の振舞いをみれば、アメリカの政治家のほうが日本の政治家よりも、立ち居振る舞い、スピーチが堂々としていますね。
また、それは政治家だけでなく、経済界、芸能界、スポーツ界でもいえるでしょう。
では、そういう国際舞台でどうして日本人が目立ず、立ち居振る舞いが堂々として見えないのか?
それは、語学という要因もあるでしょうが、それ以上に日本人の中にある1つの価値観が大きいと、わたしは個人的に思っています。
しかも、その価値観は、本来の意味とは異なる形で、つまり誤解されて受け取られていて、それを正す必要があるのではないかと思っています。
では、その日本人が世界の舞台で堂々としていない、個の輝きを失わせてしまっている価値観とは何か?というと。
それは、「恥の文化」だと、わたしは個人的に思っています。
ただし、誤解しないでくださいね。わたしは正しい意味での「恥の文化」は、すばらしいものだと考えています。でも、どうもわたしたちの多くは、この「恥」という言葉の意味のとり違いをしているように思えてならないのです。
説明しますね。
わたしたち日本人が「恥」という言葉を、文字だけでとらえたとき、直観的にイメージするのは「恥ずかしい」という意味合いではないでしょうか。
そして、わたしたちはできるだけ「恥ずかしい」という想いをしないように心がけますし、また世間もそれを軽蔑するような考えがあるように思うのです。
例えば、教育の現場でこういうのがよく見られます。
先生が「この問題、誰かわかる人?」と尋ねると、生徒はわかっているにも関わらず、手を挙げるのを躊躇します。
その理由は「たぶん答えはこうだと思うのだけれど、もし間違っていたらどうしよう・・・」と考えるのです。
それから「手をあげて答えること自体が恥ずかしい」という考えもあります。
こうした考えは、「恥ずかしいことをしてはいけない」という価値観から生まれます。
それは、「恥ずかしい」が、人とは違うことをしてはいけない。人より目立ったことをしてはいけない、間違ったことをしてはいけない。それは、恥ずかしいこと=やってはいけない誤りだという考えに立脚しています。
それから、先の例で、実際に手をあげて答えたことが間違っていた時、周りの反応はどうかというと。
他の生徒は間違った答えを言った生徒に対し、笑います。
なぜ笑うかといえば、「間違っているのに、手をあげて答えた」「手をあげたことで、目立つこと(人と違ったこと)をした」ことへの非難です。
根本にそういうことをしてはいけない、つまり目立つこと(恥ずかしいこと)をしてはいけないという考えがあるからです。
それと、教師が間違った答えを言った生徒に対して、ちょっと皮肉ったコメントを返すことがありますね。これが、手をあげて積極的に答えるという生徒の意思をくじかせる要因になってしまうと思うのです。そういうことがあると、そういう考えがますます生徒間に浸透していきますから、教師の方には氣をつけていただきたいです。
こういうとき、アメリカではどうかといえば、教師は「Good try(惜しいな。でも、よい発言だったよ)」と言います。
他の生徒たちは、間違ったことをまったく問題にしません。間違った答えを言った生徒を嘲笑することは一切ないのです。
これは、教育として「教えている」ものではなく、アメリカ社会にある価値観からきているものです。
間違った発言をしたとしても、そういう態度をとらなければならないと教科書で教えていません。それは逆の意味で日本でも同様ですよね。
家庭で、教育の現場で、社会生活の中で、そういう価値観が普通になっている文化があるということです。
日本では「恥」という文字を「恥ずかしい」と連想付をしてしまっているため、本来持つ意味を正しく理解せず、現在のような積極性を損なう文化をつくってしまっているように思います。
わたしはつぎのように考えます。
本来の「恥」とは、自分ができることであるにも関わらず、それを自発的に行動することができないこと。
つまり、その「行動を起こす勇氣をもたない」こと。
また、自分の信念を他人が非難することに対して、恐れない勇氣をもたないこと。
それを「恥」と思うことが、本来の「恥の文化」です。
また、周り(他人)に対して「恥」と思うのではなく、自分自身に対して「恥」と思うことなのではないかと思うのです。
「恥ずかしい」などと矮小なレベルのものではなく、ずっと高潔な信念を貫くゆるぎない勇氣をもつプライドこそが、本来の「恥の文化」にある価値観なのですね。
テレビ番組で、サムライがプライドを傷つけられたと言ってすぐに怒ったり、逆に切腹したりというのは、まさしく「恥ずかしい」という誤った価値観であり、それをマスメディアを通して、わたしたちは誤解してしまっているように思います。
本当のプライド・・・高い精神性をもった考え、価値観、人格を、わたしたちは再認識するのも、これからの世界の中の日本という位置づけの中で大切なことだと思うのです。
]]>昨日、ニューヨーク(NY)旅行から戻ってきました。
今回は、この一週間のNY旅行で得た氣づきについてお話したいと思います。
2月のNYですが、この時期は非常に寒く、氣温は0℃前後で零下の日も珍しくありません。
そんな寒い時期に、何を好んでNY観光する氣になったのか?
フロリダやハワイ、メキシコと、暖かいところもあるのに、どうして極寒のNYだったのか?というと;
- 子供たちの学校がプレジテント・デーということもあって、一週間お休みであったこと。
- 子どもたちはカリフォルニア生まれで、寒い地域を経験していない。
- これまでカナダに行ったことはありますが、夏だったので、冬の雪景色ならびに寒い氣温の中の体験がない。
- スパイダーマンが好きな息子が、前々からニューヨークに行きたがっていた。
- わたし自身、NYへはもう9年ほど行っていないので、久しぶりに行きたかった。
ということで、今回のNY旅行・・・ということになったのです。
さて、周りの友人たちからは2月のNYの寒さが相当厳しいということを聞いていました。
なので、防寒服やブーツを買いこみ、途中飛行機が飛ばなくて待機させられることもあるということで、非常食のスナック菓子、それからのど飴も用意しました。
そんなこんなで、準備万端でNYへと向かったのです。
さてさて、ではこの一週間のNY旅行は、どうだったかというと・・・
めちゃくちゃ楽しかったです(^O^)/
NBCのスタジオ見学、長男がボランティアで天氣お兄さんよろしくテレビ画面の前で発表したり、ソーホーやリトルイタリー、ミッドタウン、自由の女神など、地下鉄に乗ってNYの上下・左右をめぐりました。
それからずっと楽しみにしていた自然博物館やメトロポリタン美術館・・・たくさんの刺激を受けました。これはNYへ行ったら、絶対にお勧めです。
それからブロードウェイのミュージカルも中央の前から2番目の席という特等席で、俳優たちの息遣いを感じながら観ることができました。最初から最後まで大興奮でした。
わたしの隣に、一人で若い女性が観に来ていたのですが、彼女のリアクションが子供のように純粋で、目をか輝かせてわたしに話しかけてくるのです。
それをみていて、ミュージカルというのはこのように演者と観客が一体になって調和してこそ、本当に楽しめる最高の舞台になるのだなぁと思いました。
わたしもセミナーをするときに、講演者と聴講者が同じような一体感をもてるようにしたいものだとあらためて思ったものでした。
それからNYは、LAに比べて食事がおいしい!
というか、日本人好みの味付けの店が多いのに感動でした。これには妻も大喜び。旅行を終えた今も、またNYへおいしいものを食べに行こうと話しているほどです。
アメリカのデザートは甘すぎると相場が決まっているのですが、NYの中心にはデザートのおいしいお店がたくさんあります。これだけでも、行く価値ありです(^^)b
それと、普段は朝食をとらないのですが、カフェがたくさんあるので、毎朝、朝食をとりに街中を出歩いていました(^-^)/
さて、かんじんのNYの寒さはどうだったかというと・・・
初日を除いて、ほぼ零下の寒い日が続きました。
だから寒い・・・・はずなのですが、実は面白いことに寒いとは感じなかったのです。
いや、寒いには寒かったのですよ。確かに温度計の世界では、寒い日が続いたのです。
でも、体感的には寒さを感じない、いや結構暖かかった・・・・なんか変ですね。
説明しますね。
NYへ行く前から、わたしたちはNYが相当寒いと思っていたことはお話ししましたね。
実は、これがポイントなのです。
わたしたちのNYの寒さの期待値(スタンダード)は、相当高いものでした。
NYはものすごく寒いものだと思っていたので、実際のNYの氣温は、たとえ零下であっても、わたしたちの期待値の範囲内の寒さだったわけです。
なので、寒いには寒いのですが、それが予想外ではなく、完全に許容範囲であった。もっといえば、わたしたちは相当寒いと思っていたので、意外と寒くないなぁと感じたほどです。
しかも、寒さへの対策も万全にしていたわけです。
完全防寒ですから、寒いというより、防寒着の中はヌクヌクと温かい状態でした。
なので、NYは寒いところではあったけれど、実際にはわたしにとっての体感は、それほど寒くなかったですし、寒くて嫌な思いをするといったこともありませんでした。
むしろ、適当に寒くて、冬らしくてよかった・・・という印象でした。
こういうことを言うと、わたしが寒さに強い人のように思うかもしれません。
でも、わたしは鹿児島生まれということもあり、相当な寒がりです。
実際に、南カリフォルニアで暮らしているわたしは、氣温が15℃を下回ることがあると「寒すぎる〜。なんて今日は寒いんだ。ジャケットを着なきゃ」みたいな状態になります。
こちら南カリフォルニアでは、近所の人たちは「なんて寒い日なの、こんな日は何も手につかないよ。」とか「おいおい、これじゃぁ風邪ひいちゃうよ」「嫌だねぇ、こんなに寒いなんて・・・」と、とにかく15℃を下回るような日があれば、文句を言うものです。
これって、北海道やNYの人が聞いたら、吹きだしちゃうような話ですよね。
北海道の人と南カリフォルニアの人の氣温への態度の違いは、「スタンダード(期待値)」の違いから起こっているのです。
南カリフォルニアに暮らす人たちにとって、氣候は常に暖かくて、ブルースカイが広がる天氣というのがスタンダードです。
だから、たまに雨が降ると、天候に不平を言います。氣温が15℃を下回るようなことがあると、寒いといって不平を言います。
でも、南カリフォルニアの人が、おかしいということではありません。
人はスタンダードとの違いに対し、不快に感じるものだということです。
というのも、わたしたちはスタンダードに合わせた行動をとるようになっているのです。
だから、おうおうにしてスタンダードから外れることに対して準備ができていないものです。
15℃以下の氣温なのに、半そで短パン姿では、ちょっと肌寒くて当然ですよね(^^)
さて、この「スタンダード」は、わたしたちにとってものすごく大きな意味を持ちます。
スタンダードによって、わたしたちの行動が決まる。
つまり「スタンダード=行動の規範」となります。
ですから、スタンダードは自分たちの人生の質を決めるといっても過言ではありません。
先ほどはスタンダードを「期待値」といいましたが、言い方を換えると「基準値」となります。
人生の目標は、まさにスタンダード=基準値といってよいでしょう。
どのような人生を送りたいか?
経済的にどれくらいの生活を送りたいか?
社会への貢献をどれくらいしたいのか?
どれだけの人に尽くし、喜ばせたいのか?
こうしたスタンダードをどこに設定するかで、わたしたちがもつアイデアや行動することのレベルが決まります。
そして、アイデアと行動の質に見合った結果を、わたしたちは人生で得ることになります。
人生の質は、わたしたちのスタンダードで決まるということです。
だとすれば、これはとても喜ばしいことでもあります。
何が喜ばしいと思いますか?
わたしは、このことに氣づいたときに、とってもうれしくなりました。
その氣づきとは・・・・
“スタンダードは他でもない、すべて自分自身で決めることができる”
今回は「嘘」についてお話したいと思います。
まず、嘘をつくことはよいことか?といえば、嘘をつくのは、「よいこと」とは言えないと答えておきます。
では、悪いことか?
・・・・・・・・
うーん、何と答えていいのか、なかなか難しいですね。
それは、状況によるという答えになるからです。
状況によっては、嘘が、いわゆるわたしたちが考える「騙して悪事を働く、相手を傷つける」ものとは異なる意味合いを持つからです。
そこで、まずは「嘘」について定義することにしましょう。
嘘・・・事実と異なることとします。
なので事実と異なるものは、すべて嘘となります。
でも、事実と異なることを述べることが、必ずしも悪いこととは限りません。
事実と異なることを述べる目的によって、またはその働きによって、良くもなれば悪くもなります。
相手から搾取するために、嘘をつくのは、これはよくないことです。
自分に不利益がないように嘘をつき、それによって他人が傷つくのであれば、それもよくないことでしょう。
しかし、例えばがんを宣告された家族に、病名を偽って伝え、その家族が希望をもってポジティブに生きようとする意思をもってくれるのであれば、悪いことではないのではないでしょうか。
それから、子供には無理だなと思っていても、子供がそれをやりぬこうという意志をもってもらうために「お前ならできる!」と発奮させるために自分の考えとは異なることを言うのも、悪いことではないのではないでしょうか。
このように事実と異なることを述べる目的が、相手を傷つけることになるのか、はたまた相手にとってよい影響をもたらすかによって、良くも悪くもなるということです。
さて、では自分につく「嘘」はどうなのでしょう?
この場合も、同じようなことがいえます。
自分に嘘をつくことが、自分の人生を前進させることになるか?それとも後退させることになるか?この基準で、自分への嘘の意味合いが決まります。
今努力することが、きついと感じ、今楽をすることをもとめて、正当化して努力しなかったり、今やるべきことを先延ばしする・・・これは、人生の前進を阻むことになりますね。
では、人生を前進させる自分への嘘とはどういうものかというと。
英語ではこのような格言があります。
Fake it until you make it.
(それが現実になるまで、自分を偽れ)
例えば、自分ができもしないことを、自分に「できる、できる!」と言い聞かせることをさします。
自分が今まで達成したことがないこと、未知の領域にあるものについては、誰しも不安を持ちます。こういうとき、「大丈夫、自分ならできる!」と言い聞かせる。このとき、心の中では無理かもしれないと思いつつも、その考えを打ち消すかのように「大丈夫、大丈夫・・・できる、できる、できる!」と言い聞かせるのです。
さて、嘘の定義をもう一度思い出してみましょう。
嘘とは事実とは異なることと言いました。
事実とは、すでに結果が出ていることを指します。または証明されたものです。
その意味では、未来のことはすべて事実ではないということになりますね。
ということは、まだ起きてもいないことを、さも確実に起こることとして断言することは、嘘をついたことになります。
なので、成功哲学に書いてあるように、明確な目標(ゴール)をもって、それをあたかも既に実現したかのようにイメージし、それを潜在意識に刷り込みなさいという教えは、ある意味、自分(潜在意識)を騙すことになるわけです。
ここで、ぜひ覚えておいてほしい事があります。
それは、目標の達成、ゴールの実現を確信すること、そのゴールを実現したかのようにイメージすることを「自分を偽っている」ことだとは決して思わないことです。
先の英語の表現"Fake it until you make it."は、実は誤りです。
もし、自分がゴールを実現することを確信することが、自分を騙していることだと認識した瞬間に、潜在意識にその考えをプラスのこととして擦り込むことはできなくなるからです。
ここで成功者に共通していることをお教えしますね。
成功者は、自分の成功を120%信じて疑わない特徴をもっています。
しかも、面白いことに、その成功するということに対し、明確な根拠をもっていません。
彼らはこう言います「わたしが成功するというのだから、必ず成功しますよ」と。
「あなたがそこまで確信する理由は?」と問うても「理由なんか、ありません!」と真顔できっぱり言いきります。
でもですね。そう言っている成功者は、自分が偽りを言っているなど思ってもいないのです。
成功者が、その成功の実現について語るとき、それは彼らの中では正直な考えなのです。
もっと言えば、彼らは大きな「勘違い」をしているのです。
勘違いしているのですから、決して嘘をついているわけではありません。わたしたちからすれば、それは「勘違い」なのですが、彼らにとっては「事実」なのですね。
成功する人って、ある意味、大勘違いしている人が多いのですが、その勘違いが、ものすごくよい方向にその人の人生を導いてくれることになります。
そこで、提案です。
あなたも勘違いをしてみませんか?
自分に嘘をつくのではなく、勘違いしちゃうのです(^-^)/
ありがとうございます。
Taka
]]>今回のテーマは「自由」です。
自由と聞いて、自由とはどういうことか?と問われたら、多くの人が自由に自分の意志で物事を決めることができる「選択の権利」だと答えるのではないでしょうか?
誰からも強制されることなく、束縛もない。自分の意思で好きなことを選択できる。
選択肢が360度方向、無限にあることだと。
わたしも以前は、自由=選択できる権利だと思っていました。
でも、今は違います。
選択できるというのは、いえ、選択できるからこそ、悩みを抱えることになります。
そして、何かを選ばなければならない状態になります。
選べるということは、選ばなければならないということでもあるのです。
選択肢があるからこそ、何かを選ばなければなりません。
では選択肢がないほうが自由なのか?
これから述べることを、慎重に聞いてくださいね。
選択肢を与えられないために選ぶことができないというのは、もちろん自由ではありません。
それは誰か他人から強制されたり、枠内に閉じ込められた状態だからです。
では、やっぱり選択肢がないより選択肢があることのほうが自由なのか?
それも違います。
選択肢があることは、ある程度の選択の幅が広いだけであって、真の自由ではないのですね。
では、いったい何が自由なの???
混乱させてしまったのなら、ごめんなさいね。
わたしはこう考えるのです。
真の自由とは、選択肢がないことだと。
もっと明確に言えば、自由とは選択する必要がないことと言った方がいいでしょう。
「選ばなくてよい」人生と言ってもいいです。
つまり、自分がやることが明確で、自分の進むべき道がはっきりとしていること。それをすること以外に道はない状態。
なぜなら、それが自分の使命であり、生きている証であり、それをすることが大好きで、最高に幸せなこと。
キリストの生き方とは、あの生き方以外に考えられなかったわけです。
釈迦にしても悟りを開いた後の道はあれしかない。他に考えられないわけです。
世に偉業を残した人たちに共通するのは、「たられば・・・」という他の選択肢がない生き方であったという点です。
本田宗一郎、盛田昭夫、松下幸之助・・・彼らの人生は他に変えられないです。ありえないのですね。
例に挙げた人たちが、あまりに偉大すぎてピンとこないかもしれませんが、それは偉大なことを成し遂げた人だけに共通のことではありません。
好きなことをして生きている人、今の人生が嬉しくて感謝している人は、今の生き方以外の道など考えることができません。彼らにとって、他の選択肢はないのです。
その人たちにとって唯一の道である今の人生を一生懸命生きているのですね。ものすごく幸せな生き方だと思います。
そういう生き方こそが、自由なのですね。
ありがとうございます。
Taka
ミクシィ日記から「過去との決別・・・」を紹介します。
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アメリカのビジネス思想家として有名なジム・ローンが「自分自身を取り巻く環境や経済的な状況をよりよいものにしたいなら、未来に向けた努力だけでなく、過去から引きずっているものも、きちんと正さなければならない」と、その著書『逆境は天からの贈り物』の中で述べています。
わたしたちを取り巻く環境とは、付き合っている友人や読んでいる本、見ているテレビ番組、住居、よく利用しているレストラン等々をさします。
特に重要なのは、付き合っている人です。
「君の仲のよい友人を3人、連れてきなさい。そうすれば、君がどんな人生を送っているか正確に言い当てることができるだろう」という格言があるように、わたしたちは自分と似たような人たちと付き合う傾向があります。
ここで、重要なことをお伝えしますね。
成長とは、あなたの持つエネルギーの上昇を意味します。
エネルギーとは、あなたの思考のことです。
あなたの考えが変わると、エネルギーが変質します。
エネルギーの変質とは、エネルギーのもつバイブレーション(振動数)が変わること。
バイブレーションは、同じ振動数をもつものと共鳴し、引き合います。
つまり、あなたが今付き合っている人たちは、今のあなたのエネルギーと同レベルのエネルギーを持つ人たちです。
つまり、あなたの周りにいる友人たちは、あなたと同じような考え方、価値観を持っているということです。
似た者同士・・・類は類を呼ぶ・・・とは、こういうことを指すのです。
さて、ここで誤解のないように本質に耳を傾けて聞いてくださいね。
あなたが、自分の置かれている現状に満足できない、いやむしろ現状に不満を抱いているなら、あなたは今お付き合いしている友人と離れなければなりません。
こういうことを言うと、あまり氣持ちのよいものではありませんね。
でも、これは致し方のないことなのです。
もし、あなたが今の現状にとどまる、現状の延長線上にある将来を喜ばしく思うなら、今の友人と付き合っていてよいと思います。
でも、まったく異なる将来をもとめるなら、今お付き合いしている友人とは付き合いをやめるべきでしょう。
いや、あなたは付き合いをやめなくても、友人たちの方から、あなたから離れていくことでしょう。
このとき、その友人たちを追い求めてはいけません。
これはとても大切なことなので正しい理解をもって聞いてくださいね。
例えば、あなたが、これまでの自分からするとずっと高い志(夢・願望)をもったとします。
そして、その志を友人に語ったとき、周りの友人たちがあなたの夢をサポートすればよいのですが、多くの場合それとは逆のことが起こるでしょう。
「よせよせ、そんなの無理に決まってるだろう」
「ハハハハ、お前が?本氣で言ってるのか?冗談だろ?ハハハハ」
「おいおい、夢を見るのは勝手だけど、こっちに迷惑をかけるなよ。お金を貸してくれなんて言わないでくれよ(笑)」
「よーく考えた方がいいと思うよ。それって難しいと思うよ。前に失敗した人がいて、悲惨な人生を送っているという話を聞いたことがあるし」
「ほーぅ、お前ってそういうこと考えてるんだ。まぁ、せいぜい夢でも見てれば」
このように、今までよりもずっと高い志に向かって進もうとするあなたを引き留めたり、自信をくじくような言葉をかける人が周りにいないとも限りません。
特にあなたと親しい人、家族は、本来そういうつもりはなくても、結果的にあなたの足を引っ張るような無思慮な助言をします。
「本当に大丈夫なの?」
一見、あなたのことを思ってかけている言葉のように思いますが、その言葉の裏にはあなたへの信頼が欠けているのです。
あなたが高い志を持つということは、あなたのエネルギーレベルが高くなったことを意味します。
そうすると今までのエネルギーレベルで共鳴していた周りの人たちは、それを不快に感じます。
なぜなら、バイブレーションがかみ合わないため、共鳴できず、共感・同調することができないのです。
そして、あなた自身も周りの人から賛同もらえず、なんとなく居心地の悪い思いをすることでしょう。
重要なのは、このときです。ここであなたがどのような選択をするか?
「やっぱり、皆が言うように自分には無理だよね」と言って、従来の思考レベルに戻るか?
それとも「自分の考えを、彼らは理解してくれないようだ。でも、自分はこの夢を実現できると思う。必ず実現してみせるぞ」と言って、自分の道を選ぶか?
とても重要な選択です。
よく「付き合う友人を選びなさい」という言葉があります。
でも、正しくは「あなたがもとめる志を選びなさい」なのです。
あなたが、高い志をもったとき、あなたのエネルギーレベルが一段高くなります。
そうすると、これまで付き合ってきた友人たちと共感することが難しくなります。
このときあなたが志をもとめることを選択し維持し続けると、周りの友人が自然に離れていくことになります。
そして、新しいエネルギーレベルを持ったあなたのもとに、共鳴する新しい友人が寄ってくるでしょう。
だから、友人は選ばなくてもよいのです。
あなたの志を選ぶようにしてください。
最後に、よい友人とはお金を持っていたり、仕事で成功していることを指すのではないということを申し上げておきます。
よい友人とは、あなたの人生を向上させてくれる考え方や態度を備えている人のことをさします。
あなたの理想としている将来のあなたの姿(人格)になることにプラスになる人たちのことです。
そして、そういう人たちは、あなた自身の志、思考に引き寄せられるのだということを覚えておいてください。
ありがとうございます。
Taka
今回は「自分からすべてが起こっている」をテーマにお話しします。
ちなみに、今回の記事もミクシィ日記に書いたものです。
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日記の読者からのコメントで「批判」について、どう受け止めればいいのか、わたしの考えを日記にしてくださいというものがありました。
自分がうまくいくようになると、自分に対し批判する声が聞かれるようになったという読者のお話でした。
そこでわたしの考えを述べますね。
結論から言うと、他人からの「批判」というものは存在しないということです。
他人は意見を述べはしますが、批判は述べることはできません。
なぜなら、批判は、それを受けた自分がその意見を「批判であると解釈したとき」に起こるものであるからです。
自分しか「批判」を作り出すことはできないのです。
それが証拠に、同じ意見であっても、その意見を誰が発するか?どのような状況の中で述べられたものかによって、「忠告」と受けとめることもあれば「指導」と受けとめることもあるのですから。
読者の方の質問の意図は、また別のところにあったのかもしれません。
批判されることが多くなったので、それをどのように処理したり、この問題をいかに解決すればよいのか、わたしの意見を参考までに聞きたいというものであったのかもしれません。
わたしはつぎのように考えます。
問題は、解決しても、今後も何度も同じようなことが繰り返し起こってしまうと。
なぜなら、問題は自分の心(解釈の仕方、判断の基準)が生み出すものだからです。
なので、他人の意見を「批判」として捉える限り、1つの批判をうまく対処したとしても、またつぎに誰かの意見を批判として考えることになるでしょう。
そのたびに、いちいち批判を処理する(乗り越える)ことを繰り返すことになるでしょう。
なので、問題をいくら解決しても、真の意味での解決にはいたらないのです。
自分の中に問題を生み出す原因がある。それは「批判」として解釈してしまう自分の考え、心のあり方です。
★本当によいのは、問題自体を「解消」することです。★
問題が二度と起こらないようにすることです。
それはこの場合、「批判」という解釈をしないことに他なりません。
考え方の根本には、誰かが自分に対して発した意見を、「この意見の中に、自分の人生を前進させる氣づき(教え)があるだろうか?」と考えることです。
自分を幸せにしてくれるアイデアを、他人からいただくようにしましょう。
もし、その意見に、何も自分を成長させてくれるものがないとしたら、それだけのことです。
他人の言葉に反応するのではなく、自分の望むこと(幸せや成長)にプラスの教えがあるかどうかを問いかけることです。
以上のようにわたしは考えます。でも、これが正解ではありませんよ。あくまで、わたしの個人的な見解です。
と、まぁ考え方のポイントは今述べたとおりなのですが、なかなかそう考えることができないこともあるでしょう。
いったん心が批判と感じてしまったら、あまり嬉しいものではありませんよね。
実際、自分が成功すればするほど、周りから批判めいたこと、中傷がネット上の掲示板に書かれたり、メールで送られてくる・・・こういう経験をお持ちの方もいらっしゃることでしょう。
これは成功している人に共通した経験でもあります。
こういうとき、どうすればよいか?
いろいろあると思いますが、わたしは「無視」を正しく行うことだと思います。
誹謗中傷の類のメールや書き込みは、単に無視してしまえばよいです。
絶対に反論してはいけません!←これがとても大事。
無視し続けることです。そうすれば自然に誹謗中傷はなくなります。反論は、誹謗中傷にとってエネルギーになります。なのでエネルギーを与えなければ、いつかエネルギーが底をついて誹謗中傷はストップしてしまいます。
また、無視を正しく行うという意味では、つぎのような行動も1つです。
例えば、ご自分が発行しているメルマガに対して、誰かが中傷するような意見をメールで返信してきたら、アカウントからデリート(削除)してしまえばよいです。
それは、そのメールを送ってきた人自ら、わたしはあなたにとってふさわしい読者じゃありませんよと、わざわざ教えてくれたことになります。
だから、そのときは「教えていただいてありがとうございます。喜んでメール配信リストから削除させていただきますね」と心の中で言いながら、デリートすればよいのです。
そうすると心がすっきりしますよ。
人生とは、自分の心が感じた想いの蓄積に他なりません。
経験したこと以上に、経験をどのように心が受け止めたかなのです。
幸せな人生を歩みたいのなら、できるだけ「幸せ」な思いを心が感じるように解釈力をつけることが大切です。
これをして、「積極的な心構え」と呼ぶのですね。
ありがとうございます。
Taka
]]>ミクシィ日記の中でもっとも好評だったものを紹介します。
「プライドと嫉妬について」です。
--------------------------------
プライドを持つ・・・大切なことですよね。
でも、多くの人がこのプライドをもつことの意味を間違って解釈しているように思います。
ほら、よく「あの人ってプライド高すぎない?」みたいな会話がありますが、あれって間違いなんですよね。
あの人ってプライド高すぎ・・・と表現するとき、それはその人が、人の意見を聞かなかったり、その人の意見が批判されたり、その人の誤りを指摘されたりしたとき、「その人」が腹を立てて怒る場合に使われます。
その人がプライドが高すぎるために、その人に対して反対意見や注意が向けられると、その人がプライドを傷つけられたと感じて怒ってしまうと、多くの人は解釈しているようです。
実際、他人の意見を受け入れられない自分の性格を知った本人まで、「自分はプライドがちょっと高すぎるな」と考えているふしがあります。
でも、それってまったくの誤解というか、まったく反対のことなんですよね。
本当にプライドが高い人のプライドっていうのは、周りの批判や中傷なんかで傷つく程度のものではないのです。
そんな程度で傷つくプライドなんて、小さなプライドなんだよね。
批判されて、すぐカッとなるような人はプライドの低い人。
これが正しい解釈なんですよね。
プライドというのは、器の大きい人がもつ寛容な心、すべてを受け容れる心。
なぜなら、それほどまでに自分の精神を高みに置いておくことができるからです。
精神レベルがずっと高い=プライドが高いのです。
ちょっとやそっとじゃ動じないし、怒ったりしたりするはずがありません。
だから、プライドを高く持つことはとても大切なことなのですね。
それからもう1つ、嫉妬(ジェラシー)について。
負けず嫌いの性格の人っていますよね。
まぁ、わたしも負けず嫌いな方ではあると思います。
向上心のあるタイプの人に多いとは思いますが。。。
こういう人に多いのが、自分が認められたいと思う氣もちが強いことです。
それが行き過ぎると、自分以外の人が認められることに嫉妬を感じるようになります。
自分がある程度成功していると、他の人が自分以上に成功して、それが周りから称賛されることに嫉妬を抱いてしまいます。
「アイツよりも自分の方が本当はもっとすごいんだ。もっと能力あるんだ」
「アイツのどこがそんなにいいんだよ?自分のほうがもっといろんなことできるし、知っているのに」
嫉妬しているときは、まぁ大体こういうふうなことを考えていることでしょう。
でもね。本心は違うのです。
頭では認めたくないけれど、心の奥底にいる自分がこうつぶやいているのです「いいなぁアイツ。自分もアイツみたいな業績をあげたいなぁ。アイツみたいに認められたいなぁ」。
つまりですね。自分がそのレベルになりたいけれど、無理だろうと認めたとき、嫉妬を抱くのです。
本当の自分が負けを認めた・・・このとき嫉妬を抱くのです。だって、自分ができないことを相手ができる・・・そこに羨望が生まれ、感情的にはそれを認めたくないものだから嫉妬するのですね。
さて、嫉妬する(してしまう)自分・・・嫌ですよね?
「どうして自分は嫉妬してしまうんだろう?」そうやって自分を責めたりしてはいないですか?
いいじゃないですか!
嫉妬していいんですよ!
嫉妬していることを悔やんだり恥じたりするのではなく、嫉妬していることを認めてあげましょう。
なぜなら、嫉妬しているということは、自分へのメッセージでもあるからです。
嫉妬しているということは、自分がそうなりたいと望んでいる理想の状態を見つけたということです。
誰かが自分より先にその状態になった。つまり、参考にできる素材(モデリングの対象)が見つかったのです。
どうやったらそうなれるのか前例なく、参考材料がない中で、それをもとめてがんばるよりも、身近に前例がいるのだから、その人から学べばいいのです。
そう考えると、嫉妬した後の行動が違ってくるでしょ?
嫉妬して、それをそのまま表現してしまうと、相手をののしることになります。でも、ののしった後に後悔することでしょう。
嫉妬したことを認識し、それを恥じたり悔いたりすると、自分をみじめにして傷つくだけ。。。
そこで嫉妬の意味を、先ほど伝えたように、自分の望んでいること、なりたい自分の姿、やりたいことが見つかったと思うようにしましょう。
そして、さらにモデリングの対象(夢実現のための参考材料・教材)が見つかったと思えばよいのです。
そうすれば、相手をののしったり中傷することなどといった考えは浮かんでこないはずです。
それよりも相手を称賛して褒めたり、その人の成功を口コミで宣伝してあげたりすることでしょう。
そして、その相手に近寄って「おめでとう」と声をかけることができるでしょう。
そうして声をかけてくれたあなたに対して、その人は好印象をいだきますし、きっとあなたも成功できるように支援してくれるはずです。
今回の日記が、あなたの人生を明るくさせるヒントとなれば、幸せです。
Taka
ここ2回ほどミクシィから日記を紹介しています。
今回は「家族について」です。
あなたにとって、1つでも氣づきがあることを願っています。
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今回は、家族についてのお話です。
といっても、わたしの家族を紹介する話ではありません。
わたしが出会う人の中で、この人っていい人だなぁ、長くお付き合いしたいなぁ、一緒にビジネスしたいなって思うのは、その方が家族のことを褒める人と決めています。
家族のことを話題にしたり、家族のことを褒める人って、すばらしい人格者だと思うからです。
それと、わたしの言いたいのは、家族思いっていうのとは、ちょっと違うんですね。
その方が家族思いだから、長くお付き合いしたい人とは限りません。
わたしは家族を褒める、感謝している人とお付き合いしたいと思うのです。
その中でも特に親のことを褒める人、親に感謝している人は、特にわたしは尊敬するし、信頼します。
その理由を説明しますね。
あなたは嫌いな人と仲良くすることができますか?と問われたら、Noと答えるのではないでしょうか。
どうしてかっていうと、人を嫌に思うには、それなりの理由があるからです。
自分に対して怒ったり文句を言う人って嫌ですよね。
自分と考え方や意見が違う人も付き合いにくいでしょう。
約束を破る人も嫌でしょう。
自分のことを理解してくれない人も嫌でしょう。
自分の氣にくわないことをする人も嫌でしょう。
生理的に合わない人も嫌でしょうね。
そこで考えてほしいのです。
人生で一番多く小言や文句を言ったり、叱られたり、意見のくい違いがあったり、約束をほごにされたりという経験を持つ相手は誰か?
それは、家族ではないでしょうか。そして怒られたり、理解してもらえなかったりという経験でいえば親ではないでしょうか?
一番身近にいて、一番長い時間を共にするからこそ、お互いよくぶつかり合います。
親との関係がとても良好な方もいらっしゃれば、親との関係がものすごく悪かった家庭内暴力を受けた経験があるという方もいらっしゃるでしょう。
どちらであっても、親を尊敬し、褒め、感謝する心を持つことはとても大切なことです。
親との関係が良好な人は、自然とそういう思いをもてるかといえば、そうではありません。
それを親だから当たり前みたいな態度でいると、親への愛情や感謝をもたないものです。
こういう人は、他の人にも尊敬や愛情、感謝できず、他人を褒めることをしません。
こういう人には、わたしはお付き合いしたいという想いをもてません。
では、親との関係が最悪の人はどうか?
親から幼少のころに虐待を受けてきて、ひどい親なのだから尊敬できず、愛情もわかず、感謝などできなくて当然なのでしょうか?
このことについては、わたしは個人的な見解としてこう考えるのです。
だからこそ、その親を尊敬し、愛し、感謝することができると。
『7つの習慣』の著者であるスティーブン・コヴィー博士は、離婚を真剣に考えている友人から相談を受けたとき、「相手を愛しなさい」とアドバイスしたそうです。
友人は、妻への愛情が無くなったから離婚を考えているんだと答えたのですが、コヴィー博士は「愛を失った、愛していないのだから、愛するのです。愛は動詞で『愛する』という行為なのだから」と答えたそうです。
素晴らしいアドバイスですよね。
キリストも「汝の敵を愛せよ」と言ったそうですが、相手を愛していないからこそ「愛する」行為をするのですね。
もし、家族とくに親との関係が悪い場合、それでも親を尊敬し、誉め、愛し、感謝する。
それは、純粋に自分のためになります。
自分の中の他人を愛し、敬い、感謝する心を育てる、そういう力をもつことができるからです。
以前の日記にも書きましたが、相手から何かを与えてもらったから、相手に感謝するというのでは、それは「取引」です。
何をしてもらえなくても、また逆の行為を受けたとしても、そういう状況でありながら、相手に「愛」「尊敬」「感謝」を与えることができるとき、自分は人を愛することができる、尊敬することができる、感謝することができる人として公言できるのでしょう。
親からの虐待は、確かにつらいことです。
どうしてそういう親のもとに生まれてきたのか?と疑問や憤りを感じることでしょう。
確かにつらいことです。
でも、その宿命は避けることができません。
むしろ、そういう逆境の中に、それ以上の宝を見出して運を拓いてはどうでしょうか?
どんなことにも感謝することができる、どんな人でも愛することができる、どんな人をも敬うことができる。
そういう自分になる!
人は、人生に4つの課題を持っています。
1.お金・仕事
2.健康
3.家族・人間関係
4.人格・精神性
これら4つのことは、すべてリンクしています。
2の病は氣から・・・4がしっかりしていないと2の健康を崩しかねません。
3の人間関係の課題を克服する中で4が育ちます。1の仕事は、3の人間関係によって成功が決まります。その人間関係は、4によって良好になれるのです。
4つの要素をバランスよく育てていくことがとても大切です。
その柱となるのは、4であり、現代のわたしたちがともすると一番氣をかけていなかったことかもしれません。
だからこそ、バランスをとるためにここ数年、4を見直す動きがでてきているのでしょう。
今回の日記から、何か1つでも氣づきをもっていただけると幸せです。
ありがとうございます。
Taka
今回もミクシィ日記から1つ氣づきをご紹介します。
楽しんでください↓
先日はカリフォルニアでちょっとしたセミナーを開催しました。
テーマは「成幸と不労所得」です。
小規模のセミナーなので、こちらのアジェンダで話を進める講演スタイルではなく、参加者の知りたいことにわたしが答える形でインタラクティブ(双方向)なワークセッションにしてみました。
小規模のセミナーというのもまたよいですね。
5年くらい前にわたしが講演をスタートした頃を思い出しました。
あの当時は、友人の会社の会議室を使わせていただいて、20人ほどの参加者を前に講演したものです。
それから回を重ねるたびに、参加者が増え、大規模なセミナーを開くまでになりました。
あの頃を懐かしく思い出しました。
カリフォルニアでのセミナーも、まだ始まったばかり、これから回を重ねるたびに大きなものにしていきたいと思います。
さて、このセミナーとは別に、感心する出来事があったのでお伝えしますね。
会場近くのサンドイッチカフェで、菅谷とランチをとったときのエピソードです。
菅谷と二人で、日本語で会話をしていたところ、隣のテーブルでパソコンを使って勉強しているらしいインドからの留学生がいたのです。
その彼が、わたしたちに「日本人ですか?」と声をかけてきたのです。
わたしが「そうだよ」と答えると。
彼:「日系企業で働いているのですか?」と尋ねてきます。
わたし:「まぁ、そんなところだけど」
彼:「何をしている会社なの?」
わたし:「インターネットマーケティングのコンサルティングをやっている会社だよ」
彼:「前に少し日本語を勉強したことがあるんだ。でも、いまは忘れちゃったけど」
わたし:「君は学生だよね?」
彼:「UCI(カリフォルニア州立アーバイン校)でエンジニアリングを勉強しているんだ」
わたし:「卒業後はどうするんだい?」
彼:「MBAとかも考えているけど・・・」
わたし:「なるほど、それは結構なことだね」
彼:「そちらの会社にはエンジニアはいるの?」
わたし:「あぁ、いるよ」
彼:「エンジニアの仕事ってどんなの?」
わたし:「ソフトウェアの開発さ」
彼:「どんなプログラム言語を使っているんだい」
ここで菅谷が「ウィンドウズベースさ。ASPとかだね」
彼:「へぇ、ねぇ、御社で人を雇う予定はないの?」
わたし:「うーん、今は足りてるから、その予定はないね」
彼:「そうか、僕は日系企業で働きたいと思ってるんだけど。どうだろう?」
わたし:「ごめんね。今は雇う予定はないから」
そういって雇うつもりがないと伝えると、その彼はパソコンをしまって、テーブルを他の席に移っていきました。
いやぁ、驚いたというか感心しました。
日本でこんな風に学生からアプローチされるなんて、まず想像できませんよね。
こちらは正直、講演前だし、急いでランチをとっているときだったので、あまり相手にしたくない状況だったのですが、彼はものおじせずにどんどん質問してきたのです。
紙面の関係上、短く会話をまとめてはいますが、実際はこれ以上の会話をしているのです。
わたしたちがあまり乗り氣でない返事をしているにもかかわらずです。
彼の態度は、見方によれば、とても図々しく相手の状況を考慮していない行為には違いありません。
でも、わたしたちは二人「あの子はすごいなぁ。こういうところで自分を売り込むなんて、なかなかできないよね。あぁいう積極性は、学ぶべき点だね」と感心したのでした。
積極性・・・その大切さはよく言われていることではあります。
わたしたちは、自分たちがよく知っている分野、リスクのないことに関しては、積極的に行動することができますが、新しい未知の分野については、なかなか積極性を発揮することがありません。
でも、そういう時に行動してこそ、本当の積極性なのかもしれませんね。
まだまだ若いインド人留学生から、教えられた氣がしました。
]]>わくわくには、ものすごく共感します。
「わくわく」とはなにかというと、それをすることの意味とか意義を知ることによる高揚感です。それを言葉で表すと「わくわく」っていう感じになっちゃうんですね。
それは単に、氣分的に楽しいというレベルとは違います。
本質的なことを言えば、それが人のためになる、人を喜ばせることになることであり、それは天命にかなっているものということ。
ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、大真面目にそう思います。
「楽しい」は感情に基づくけれど、わくわくは感情の奥底にある魂に基づくものなのですね。
一見、苦労の多いようなことであっても、それをやることに意義を見いだせると、不思議な力がわいてきてわくわくしてくるのです。
そして、自分以外の力も働いて、まるで天が見方をしてくれるように運がよくなります。
天職という言葉があるけれど、それは天命にそった仕事のことで、天から与えられた職業のことを指すとわたしは考えています。
だからある意味、わたしたちが就いている職業はすべて天から与えられたものであり、天職と呼んでもいいのかもしれませんね。
それから、天職は何も1つである必要はないとわたしは思います。
それぞれの職場で働くことに、必ずや意味があります。
一見、困難や苦労の多い仕事でも、その意味を知れば、その仕事に意義を見出すことができて、そういう職業に就いていることにわくわくした氣持ちになれると思うのです。
そうして働いていると、周りから信頼され、スキルと同時に人格も磨かれ、運が拓けてきて、よいアイデアが浮かび、新たな仕事へとステップアップしていくことになる。
わたしたちは、人のために何か1つでも役立つことをする天命をもって生まれてきているわけですから、どんな仕事も必ず天命にそっていることを知り、今の仕事が人や自分にとってどういう意味を持つのか?どういう価値を提供しているのか?を知ることが大切です。
だから今の仕事をおろそかにしてはいけないのですね。
まずは今の仕事のお客様や仕事仲間や自分にとってどういう意味があるのか?を知ることが大切なんだね。
そして、働く意義を知ることで、わくわくして一生懸命仕事をする。わくわくしながら働けば、とても楽しくなります。
そう、わくわくして働いていく中で、その仕事を好きになっていく・・・これが正しい好きなことを仕事にするという意味なのではないかとわたしは考えています。
どんな仕事に就きたいか?どんな事業に着手したいか?・・・いろいろ悩ましいことではあります。
このとき、最初から完璧に自分の好きなことにマッチした最高の事業を探そうとしたら、これはなかなか大変で、「これだ!」というものを見つけるのは難しいです。
こういうときは、まずは氣楽にして、面白そうなことを考えてみるとよいですよ。
仕事にするという視点ではなく、何か面白そうなことを想像してみるのです。
そうすると、いろいろなアイデアが出てくるでしょう。
つぎに、それらのアイデアについて、それぞれの仕事が社会(人)に与える意義を考えてみてください。
それぞれのアイデアがもつ、社会的な意義が見つかったとき、その実現をイメージして、一番わくわくする氣持ちがつよいものを選んでみてはどうでしょう。
あなたの中の素直な心(魂)がわくわくを感じた時、それがあなたの天命にあった仕事だと思います。
ありがとうございます。
]]>ちょっとお堅いテーマですが、ちょっとだけお付き合いくださいね。
そもそも氣づきとは何なのでしょうね?
「今まで知らなかったことを知ること」
「情報として知っていたけど、新しい解釈を知ること」
となるのでしょうか。
あなたはどう思いますか?
・・・・・・・・・・・・
実際にメルマガやブログ、それから著書や講演を通していろいろな話をさせていただいているのですが、読者や参加者から「岩元さん、氣づきをありがとうございました」というコメントをいただくことがあります。
それ自体、情報を発信した側としてとても嬉しいことですし、やりがいも感じます。
そういう思いをさせていただけるということで、コメントをしてくれた方々には心から「ありがとう」と感謝しています。
それと同時に「はて、氣づきを得たと言ってくれることはありがたいのだけれど、はたして読者の言う氣づきって何なのだろう?本当に、わたしが伝えたことは読者のためになっているのだろうか?読者の人生や仕事をより豊かなものにしているのだろうか?」という疑問がでてきました。
そこで、氣づきとは何だろう?と自分なりに考えてみたのです。
そして、考えてみた結果、つぎのように氣づきを定義することにしました。
『氣づきとは、行動の変化を伴う発見である。発見は見聞きすることでは得られない。見聞きした情報は、行動を促すきっかけにすぎない。行動し、経験してはじめて発見できる。その発見が「氣づき」である。』
このように定義すると、本を読んだりセミナーに参加して「氣づき」を得ることはないということになります。
本やセミナーで得るものはすべて「情報」であり、それは新たな行動をするきっかけにはなりますが、まだこの時点では「氣づき」と呼べるものではないのですね。
知った情報に基づいて行動してみたら、結果(フィードバック)を得ます。
この結果から、情報と結果とのリンク(関連)を発見します。
そのリンクの発見こそが、氣づきなのですね。
そうして得た氣づきは、自分の中に事実として腑に落ちます。
こうすると、人は事実という確信に基づいて行動する動物ですから、その氣づきに基づく行動を継続して行うようになります。
まさに、氣づいたことで、行動パターンが変わるわけです。
そうすると人生や仕事の結果に変化が現れるようになるわけですね。
行動が変わったとき、「氣づいた」とはじめていえるのです。
本を読み、セミナーに参加して、氣づきを得たと勘違いしてしまうと、新しい情報を得るだけで満足してしまう知識オタクになっちゃいます。
書棚にはたくさんの本が並びますが、その人の人生に変化が起きない。
こういうことに陥らないように、注意が必要です。
さてさて、よく読者の方から「岩元さんは『氣づき』と書くとき、『気』ではなく『氣』と書きますが、何か理由があるのですか?」と尋ねられます。
もしかすると、あなたも同様に疑問をもたれているかもしれないので説明しますね。
わたしが尊敬している合氣道「氣の研究会」の創始者である藤平光一先生の影響で「氣」の文字を使うようになりました。
そもそも「氣」はエネルギーです。
エネルギーはこの天地に無限に存在し、かつわたしたちを含めすべての存在はエネルギーです。
わたしたちの生命活動とは、天地に存在するエネルギーをわたしたちの身体の中に出し入れして、交流している活動をさします。
なので、エネルギーは体内に貯めおくものではなく、体外に発し、そして体内にまた受け入れる・・・この繰り返しです。
だからこそ、エネルギーである「氣」は外に発するものであって、内に閉じ込めるものではないのですね。
そこで「氣」の文字を考えてみましょう。
「米」は、まるでエネルギーが八方に発しているかのように見えますよね。
それに対して「メ」は、閉(〆)めるというように、閉じ込めるように見えます。
それからわたしたちアジア人にとって、お米はまさに主要なエネルギー源でもあります。
なので本来的に「氣」という文字が表記として、ふさわしいということなのです。
なので、翻訳を除いて、わたしの著書では「氣」の文字を用いますし、メルマガやブログでも「氣」を用いています。
それと、わたしがお伝えしたいことが、あなたに伝わりますようにという想い(エネルギー)を送るという意味もあって、わたしは好んで「氣」の文字を使っています。
たとえばパソコンで「げんき」と入力して変換すると、最初に「元気」と表示されます。
これをわざわざ「き」という文字の部分だけを変換して「氣」を表示するようにすることで、そのたびにわたしは読者に想いを伝えることを意識することができます。
読者に「心を配る」ことを意識する瞬間でもあります。
今日1日、あなたが元氣でお過ごしになれるよう願っています
ありがとうございます。
]]>わくわくには、ものすごく共感します。
「わくわく」とはなにかというと、それをすることの意味とか意義を知ることによる高揚感です。それを言葉で表すと「わくわく」っていう感じになっちゃうんですね。
それは単に、氣分的に楽しいというレベルとは違います。
本質的なことを言えば、それが人のためになる、人を喜ばせることになることであり、それは天命にかなっているものということ。
ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、大真面目にそう思います。
「楽しい」は感情に基づくけれど、わくわくは感情の奥底にある魂に基づくものなのですね。
一見、苦労の多いようなことであっても、それをやることに意義を見いだせると、不思議な力がわいてきてわくわくしてくるのです。
そして、自分以外の力も働いて、まるで天が見方をしてくれるように運がよくなります。
天職という言葉があるけれど、それは天命にそった仕事のことで、天から与えられた職業のことを指すとわたしは考えています。
だからある意味、わたしたちが就いている職業はすべて天から与えられたものであり、天職と呼んでもいいのかもしれませんね。
それから、天職は何も1つである必要はないとわたしは思います。
それぞれの職場で働くことに、必ずや意味があります。
一見、困難や苦労の多い仕事でも、その意味を知れば、その仕事に意義を見出すことができて、そういう職業に就いていることにわくわくした氣持ちになれると思うのです。
そうして働いていると、周りから信頼され、スキルと同時に人格も磨かれ、運が拓けてきて、よいアイデアが浮かび、新たな仕事へとステップアップしていくことになる。
わたしたちは、人のために何か1つでも役立つことをする天命をもって生まれてきているわけですから、どんな仕事も必ず天命にそっていることを知り、今の仕事が人や自分にとってどういう意味を持つのか?どういう価値を提供しているのか?を知ることが大切です。
だから今の仕事をおろそかにしてはいけないのですね。
まずは今の仕事のお客様や仕事仲間や自分にとってどういう意味があるのか?を知ることが大切なんだね。
そして、働く意義を知ることで、わくわくして一生懸命仕事をする。わくわくしながら働けば、とても楽しくなります。
そう、わくわくして働いていく中で、その仕事を好きになっていく・・・これが正しい好きなことを仕事にするという意味なのではないかとわたしは考えています。
どんな仕事に就きたいか?どんな事業に着手したいか?・・・いろいろ悩ましいことではあります。
このとき、最初から完璧に自分の好きなことにマッチした最高の事業を探そうとしたら、これはなかなか大変で、「これだ!」というものを見つけるのは難しいです。
こういうときは、まずは氣楽にして、面白そうなことを考えてみるとよいですよ。
仕事にするという視点ではなく、何か面白そうなことを想像してみるのです。
そうすると、いろいろなアイデアが出てくるでしょう。
つぎに、それらのアイデアについて、それぞれの仕事が社会(人)に与える意義を考えてみてください。
それぞれのアイデアがもつ、社会的な意義が見つかったとき、その実現をイメージして、一番わくわくする氣持ちがつよいものを選んでみてはどうでしょう。
あなたの中の素直な心(魂)がわくわくを感じた時、それがあなたの天命にあった仕事だと思います。
ありがとうございます。
]]>約3週間近くの日本出張を終えて、アメリカに戻ってきました。
日本滞在中にブログを書こうと思っていたのですが、思うように時間が取れず、今やっとこうしてブログを書く時間が取れました。
日本滞在では、本当に多くの方々とお知り合いになる機会を得ることができてとても充実していました。
ありがたいことです。
それと桜が満開の日本は本当に美しい国だと再認識しました。
特に4月2日の名古屋城での花見は最高でした。
4月1日の名古屋は強風に見舞われたのですが、2日はうってかわって快晴、しかも暖かな陽氣、そしてもちろん桜は満開。
背景には、存在感のある名古屋城を見ながらという贅沢このうえない花見になりました。
そしてその花見をご一緒させていただいたのが、「たまごボーロ」で有名な竹田製菓の会長であり、数十社以上の日本の上場企業の大株主で日本一の個人投資家として著名な竹田和平さんでした。
午前10時から花見をはじめて午後6時まで合計8時間ご一緒させていただいたのですが、とても楽しかったです。
何が楽しいって、竹田和平さんと一緒にいるだけで楽しい氣分になるんですね。
常に笑顔で話をしながら、頻繁に大きな声で笑う姿に、元氣のパワーがモリモリ。
ご一緒しているだけで、あっという間に8時間が過ぎていた・・・そんな楽しい1日でした。
いろいろと貴重なお話や教えを受けたのですが、その中の1つをご紹介したいと思います。
それは「徳を貯める」こと。
わたしたちは「貯金(お金を貯める)」という言葉についてはよく使いますよね。
これに対し「貯徳(ちょとく)」は、和平さんの創った言葉です。
和平さんは、今のような混沌とした世の中では、「徳」を持つことがとても大切だと言います。
「徳を貯める」・・・と聞いても、いまいちイメージがわかないかもしれませんね。
説明します。
徳とは、人徳と言うように、周りの人から尊敬され、愛される、高い人格を意味します。
こう言うと、何やら徳をもつことは特別な人のことを指すように思えるし、また徳をもつことがとても難しいことのように感じられるかもしれません。
しかし、そんなことはないのです。
案外と簡単に誰でも徳をもつことができるようです。
和平さんは徳を持つには、感謝する心を持つことだと言っていました。
他人に対して感謝し、それを相手に伝えることが徳を積むことになるのだそうです。
どういうことかもう少し説明させていただきますね。
あなたが誰かに感謝するとしますね。
そうすると、感謝された人は、感謝してくれたあなたに対して感謝の心が起ります。
つまり、こちらが感謝すると、相手から感謝を受けることになります。
これは「与えると返ってくる」の法則が働くからです。
つまり、周りの人に感謝の氣持ちを持つ人は、人から感謝される人でもあるわけです。
そこで考えてほしいのですが、人から感謝される人というのは、それだけ「徳のある人」ということになります。
さて、ここで「徳のある人=感謝する心を持つ人、かつ他人から感謝される人」だと定義します。
これを商売に応用してみますね。
商売の成功は「お客さまに徳を施すこと」で実現できます。
お客に徳を施せば(=お客さまが価値と認めてくれるものを提供する)ほどこすほど、お客さまの心に感謝の氣もち(徳)が貯まっていくのです。
具体的には、お客さまへの心配りやおもてなしのサービス、付加価値の高い情報などを提供することで、お客さまはお店に対して感謝の心をもつようになります。
それはつまり、感謝の心(徳)を持ったお客さまの誕生を意味します。
徳の高い人(お客さま)は、誰(お店)かが何かを必要とすると、協力して助けてくれるものです。
ちょっと抽象的な表現なので、わかりにくかったかもしれませんね。
もうちょっと噛み砕いて説明しましょう。
商売でお客さまに徳を施すとは、お客さまがこちら(お店)に感謝するような行いをすることを意味します。
お客さまにとって価値あることを提供することで、お客さまがこちら(お店)に感謝してくれるということです。
つまるところ、ファン客のことです。
ファン客は、お店にとっては徳の高いお客さまなのです。
ファン客になると、アンケートへの協力に応じてくれたり、改善すべき点を指摘してくれたり、新製品を発表するといち早く購入してくれたりします。
商売する者にとって、ファン客相手の商売は実に楽しくわくわくするものですよね。
ファン客には、もっともっと喜んでいただきたいですから、お客さまの期待以上のサービスを提供しようと心がけるようになります。
このように「徳を施す」ことを意識して、徳の高いお客さまをうみ、そうしたお客さまと商いをすることが、商売で成功する秘訣なのです。
とってもシンプル!
このように竹田和平さんの教えは、本質にのっとったシンプルなものばかりです。
わたしもこれまで数多くの成功者や先生といわれている方とお知り合いになりましたが、竹田和平さんは、とてもユニークな方だといえます。
とてもやさしく明るいエネルギーをもった方です。
一度会うだけで、虜(とりこ)にさせる人間力、器をもった方です。
わたしも和平さんの魅力にとりつかれました
このブログを読んでいるあなたもきっと和平さんの魅力に引き込まれることでしょう。
そして、人生や仕事にとって、とても貴重な知恵を学ぶことができると思います。
なので、機会があれば、あなたにも和平さんと会って欲しいと思います。
「でも、岩元さん、竹田和平さんといったらかなりお忙しい方なので、なかなか面会できないのではないでしょうか?」
確かに、和平さん自身は氣さくな方ですから、誰とでも面会してくれるでしょうが、物理的な時間の制約があるので、直接お会いする機会を持つことは容易ではないと思います。
それに、和平さんはめったに講演をしませんので、セミナーでも会うのは難しいかもしれません。
でも、ご安心ください。
あなたに和平さんから学びたいという真摯な意思があれば、和平さんの教えをしっかりと学べる方法がありますよ
しかも「無料(タダ)」で学ぶことができます。
徳を貯める(徳をつむ)=人間力を磨くための講座を和平さんがインターネット上に開講しています。
「貯徳問答講」と名付けたオンライン講座です。
現在、その第7期生の募集をされています。
受講生の中には、著名な作家や講師、経営者もたくさんいるそうです。
日本人として生まれた人に、日本が生んだ偉大な歴史上の人物の教えや和平さんの思想を教えています。
わたしもたくさんのことを和平さんから学びました。
このブログを読んでいるあなたであれば、きっと多くを学ぶことができるはずです。
ぜひ、「貯徳問答講」に登録して、講座を受講してみてください。
受講後、あなたがわたしに「岩元さん、『貯徳問答講』を紹介してくれて本当にありがとうございました」という声が聞こえてくるようです。
あなたの成幸を願って。。。
ありがとうございます。
Taka
メルマガやブログの読者から「岩元さんの話は、いつもわかりやすくて好きです。どうやったらあんなにわかりやすい文章が書けるのですか?」とよく聞かれます。
「読みやすい」と言われると、とてもうれしいですし、「わかりやすい」と言っていただけると本当によかったと安心しますし、喜ばしいです。
でも、特にどこかで文章の書き方を勉強したとか習ったとかということはありません。
強いていえば、たくさん本を読んだり、仕事柄よいセールスレターを読んでいるということくらいでしょうか。
でも、それがメルマガやブログを書くときの参考になっているかといえば、それほどでもないと思います。
さて、ではわたしが天性で文章を書くのが上手なのかといえば、それは絶対にあり得ない!です
というのも小学生のときに作文は大の苦手でしたから・・・
では、どうしたら読みやすい、わかりやすい文章が書けるのかというと・・・
それは「伝える」ことよりも「伝わる」ことを意識して書いているということでしょうか。
情報を発信するときに「伝える」ことにフォーカスしてしまうと;
−ほら、自分はこんなこと知っているんだよ(自慢)
−こうするのが正しいんだよ(お説教)
−あー書いててスッキリした(独りよがり)
−わかる人だけ、読んでくれればいいよ(傲慢)
こうした文章には読み手への配慮がみられません。
そして「情報を伝える」意思はあっても、「情報が生きる」ことを意図していないものになってしまいます。
「情報が生きる」という意味は、情報が使われること、つまり情報が価値を生むことです。
「・・・それって、どういう意味ですか?」
説明しますね。
情報が読み手に伝わると、読み手はその情報を何らかの形で別のものに転換してくれます。
例えば、願望を明確にすることの大切さが、読み手に腑に落ちる形で伝わると、その人は願望を紙に書き出して行動をはじめるかもしれません。
そうすると行動することによって結果(価値)が生まれますね。
または、とても感動的な話でそこには人生の知恵が溢れていたとしましょう。読み手がそれに感激すると、その話を友人やまわりの人に口コミで紹介してくれるでしょう。
そうすると情報が、どんどん循環して感動の輪が広がります。
こうして、その情報が生きるのですね。
では、情報が生きるようにするにはどうすればいいのか?と思われることでしょう。
わたしの回答は「伝わる文章」を書くことだと思います。
「でも、どうすれば伝わる文章が書けるのですか?」
そこで、わたしの考える「伝わる文章」の書き方のコツをお伝えしますね。
1.十分に時間を取ってリラックスした状態のときに書くこと
忙しい時には書かないことです。メールで「取り急ぎ」と書く人がいますが、あまりよろしくありません。
2.伝えたいことの内容を自分がよくわかっていること
自分がよく知らないことを書いても、読み手は混乱します。生兵法は大怪我のもとです。
3.読み手が伝えたいことについて無知である前提をもつこと
相手がこれくらいは知っているだろうと思って書くと、説明がついつい箇条書きになって、素っ氣ないもの最悪の場合、意味不明なものになってしまいます。
4.まるで12歳の子供に語りかけるつもりで書く
これは相手を見下すという意味ではなく、12歳の子に話しかけるとしたら、こちらがとても寛大な氣持ちになって忍耐強く話をすることができます。
5.話し言葉(口語)体で伝える
活字の言葉と話し言葉は、言い回しが違います。情報の伝達手段として活字を活用する人は少ないですが、誰もが会話によってコミュニケーションをとっています。そこでは当然ながら話し言葉なわけです。なので口語体で伝えるといいですよ。
それに口語体なら、いつも誰かに話をする感覚でとても自然体な文章になると思います。
6.会話形式にする
会話は一方通行ではないですよね。でも、文章を書くと一方通行になってしまいがち。だからこそ書く文章のときには、読み手とキャッチボールするような感覚で文章を書くように氣をつけましょう。
こう書いたら、読み手はどう返答してくるだろう?と考えて、その次の文章を考えるのです。
そうすると自然に文章の中で質問する文が出てきます。質問があると読み手もその質問について考えたりして、より読み手が文章に引きつけられるようになります。
7.一度書いたら、その後読みなおして、文章が自然なものになるまで何度も編集を繰り返す。
ちなみにこのブログでも、一度アップした後に文章を読み返して、修正が必要な時はすぐに編集しています。
どんな文章の天才も、一度で完璧な文は作成できないと思いますよ。
8.とにかく文章を書くのに慣れること!
これはあえて説明はいりませんよね。
文章を書くことについては、とにかく肩肘をはらないこと。リラックスして自然体で文章を書くことにつとめましょう。
これは試験ではないのですからね
そして、一番大切なのは誰のために書いているのか?ということ。
伝わる文章を書きたいのなら、読み手のために書くことを忘れないでくださいね。
読み手をケアして愛すること。
そして、読み手が文章を読んだ後に何らかの価値を生み出してくれることを願いながら、あなたのもつすばらしい情報や考え、想いを相手に与えてください。
ちょっと生意氣なことを書きましたが、参考になっていただければ幸いです。
]]>今日のタイトルを見て、あなたはどう思ったでしょうか?
自分のすばらしさを知って、他人のすばらしさを知る・・・
どういうことか説明しますね。
過去、数回のセミナーで行った演習のことです。
セミナー参加者にインデックス・カード(紙)を配って、それぞれその紙に夢を書いてもらいました。
その夢は、つぎの言葉の続きを埋める形で書いてもらったのです。
その言葉は
「いつか私は・・・」
でした。
そうすると、とてもすばらしい発見をします。
「いつか私は・・・」
自分は将来どういうことをする・・・という夢を書いてもらうわけです。
参加者はどういうことを書いたと思いますか?
試しに、この日記を読んでいるあなたも、ここで読むのをやめて、紙に書き出してみてください。
紙がない方は、目を閉じてリラックスして、考えてみてほしいのです。
「いつか私は・・・」その続きの言葉、あなたの夢・理想を埋めてみてください。
どうぞ・・・
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
いかがでしたか?
やっていただけましたか?
これって、とてもすばらしい氣づきがありますから、ぜひやってみてください。
ほら、先に読み進めるのではなく、さぁ、読むのをやめて、目を閉じてイメージしてほしいのです。
自分は、将来なにをしたいのか・・・・?
どうぞ・・・
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・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
はい。いかがでしたか?やっていただけましたか?
やっていないなら、もう一度チャンスをあげます。
どうか、やってみてください。
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ちょっとくどかったかな。一度目で書いていた人にとっては、くどすぎましたね。ごめんなさいねm(_ _)m
実は、過去数回延べ300人以上の人に、この「いつか私は・・・」の演習をやっていただきました。
そして、毎回同じような発見があったのです。
それも、とってもすてきなすばらしい氣づきです。
どういうことかというと。
「いつか私は・・・」の続きをインデックス・カードに書いたものを、回収して、それを読み上げると、つぎのような文言がありました。
いつか私は;
「資産100億円を築いて、学校をつくりたい。その学校では、今の教育では教えていない人間の本質を教えて、すばらしい人材を100万人生み出すのだ。」
「アジア・アフリカの発展途上国に病院を建てて、貧しくて必要な医療を受けられない人を救いたい。」
「大きな船を所有して世界中を周り、格国の人たちとふれあい、彼らを船に招いて交流を図りたい。そして、文化の違いを認めながらも共通の意識を育んで、相互理解を深めたい。」
「財団をつくり、世界中にある地雷を撤去して、安心した生活を送れるようにする。」
「小さくてもいいから、幸せな家庭を築きたい。子どもたちがすくすくと育って、立派な成人になる。それが私にできる社会貢献だから。」
ここにあげたのは、ほんの一例です。
この夢を読んで、あなたはどう思ったでしょうか?
また、ご自分が書いた(描いた)夢に目を向けてください。
そこには何が書いてあるでしょうか?
実は、参加者の99%の夢に共通することがあったので、わたしは驚くと共に感動しました。
夢で語っている細かな内容は、それぞれ異なります。
けれど、共通していることがあるのです。
上記の夢の一例を再度読み返してください。
または、あなたの夢を読み返してみてください。
そこに、共通することがあるのではないでしょうか?
さて、共通していることは何か・・・お氣づきになりましたか?
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共通していることとは・・・
「皆、誰かに貢献することを夢としている」
のです。
セミナーの演習では、参加者の99%が、自分だけが幸せになったり、成功するといった自己完結の夢で終わっていない。誰か他人を幸せにしたり、誰かを救いたい、貢献したい・・・そういう夢を書いていたのです。
アインシュタイン博士は、ある記者から「人は何のために生まれてきたのでしょうか?」と尋ねられて、つぎのように答えたと言います。
「他人に奉仕するためだよ。他に何の目的があるっていうのかね?」
すばらしい言葉ですね。わたしも同感です。
わたしの著書『仕事が嫌いになった人へ Happy@Work』(PHP研究所)でも書きましたが、「好きなこと、楽しいこと」を仕事にすることを善しとする考えが流行していますが、わたしはそれに加えて「嬉しいこと」を仕事にすると、人生に充実感を味わえると思います。
自分一人が好きで、楽しいことを仕事にしても、それを喜んでくれる人がいなければ、その仕事はうまくいきません。
やはり、他人に喜んでもらえること、その喜んだお客様の顔をみて嬉しく思う・・・そういう仕事につけることが、人の使命のまっとうかもしれないと思うからです。
さて、先の演習を行ったセミナーで、わたしが参加者それぞれの夢を読み上げた後に伝えた言葉を、ここに再現します。
「このように、参加者の皆さんの夢は自分一人だけがよければよいというものではなく、他人を幸せにすること。それを壮大で、すてきな夢ばかりですよね?
この夢を書いたのは、マスコミに登場する成功者や偉人ではなく、今この会場の席に座っている一人ひとりなのです。
ほら、あなたの隣の人をご覧になってみてください。
一見、ごく普通の人に見えるその人の内側には、ものすごく大きくて、すばらしい価値ある『志』があるのです。
そうすると、その人を見る目が違ってきませんか?
そして、それはあなた自身にも言えることです。
あなたの夢をもう一度読み返してみてください。
どう思いますか?
・・・・・・・・・・
自分って、すごいなぁと思いませんか?
そういう夢を抱いている自分を、すごいと思いませんか?
思ってください。
褒めてやってください。
自信を持ってください。
すばらしい壮大な夢をもっている自分を、褒めちぎって、愛しましょう」
そして、この日記を読んでいるあなた。
あなたにも同じメッセージを贈ります。
]]>先日、車の中でわたしと息子が交わした会話です。
息子:「ダディ、女の子ってどうして男の子に、いろいろと悪口を言ったり、叩いたりするの?」
私:「ケヴィンにいろいろ言ってくる女の子がいるの?」
息子:「うん。僕だけじゃないよ。他の男の子にもだよ。」
私:「なるほど。あのね。男の子にちょっかいをだす女の子は、自分が注目を浴びたいと考えているんだと思うよ。氣を向けてほしいと思ってるんだよ。ほら、女の子ってきれいな洋服着たり、おしゃれをしているだろ。女の子はきれいになりたいんだ。だから、男の子に見てほしいんだよ。そして、それを褒めてもらったり、自分がきれいだということを分かってほしいのさ。」
息子:「どうしてそんなことするの?」
私:「さぁ、ダディも男の子だから女の子のことはよくわからないけど。1つだけ確かなことがあるよ。それは、ケヴィンにちょっかいをだした女の子は、決してケヴィンのことを嫌ってるわけではないということ。もしかすると、ケヴィンのことを好きなのかもしれないよ。
だから、今度ケヴィンにちょっかいをだしてくる子がいたら、その子のことを何か褒めてあげたり、話しかけてあげたりしてあげなよ。そうすれば、喜ぶと思うよ。ケヴィンが自分から話しかけてくれないから、ケヴィンと話をしたくて、何かちょっかいをだすのだろうからね。」
息子:「(ポッと赤らめた感じで)なんか変なの・・・。うーん・・・でも、なんか女の子の態度を思い出したら、だんだん嫌になってきた。どうして?やっぱり女の子はおかしいよ。よくないよ!
女の子なんて嫌いだよ!・・・もう、やだ!」
※息子は、女の子がちょっかいを出している場面を思い出したのでしょう。思いだしたことで、だんだん怒りたくなったのだと思います。
私:「ケヴィン・・・、ケヴィンはさぁ、ケヴィンが嫌いな映画のDVDを買いたいと思うかい?」
息子:「うーうん、買わない。」
私:「どうして?」
息子:「だって、面白くないもん。」
私:「ほーぅ、ケヴィンは面白くないものは見たくないんだね?」
息子:「あったりまえじゃん。見たくないよ。」
私:「でも、ケヴィンは今、面白くない、嫌なことを思い出してたじゃん。」
息子:「なにを?」
私:「ほら、女の子がケヴィンにいたずらすること。今、ダディにそのことを話していた時、女の子がケヴィンにちょっかい出した場面を思い出したから、嫌な氣分になったんだろ?」
息子:「・・・・」
私:「ケヴィンは、わざわざ自分が嫌いなこと、面白くないことを思い出して、嫌な思いになったんだよね。」
息子:「・・・・」
私:「ケヴィンは、自分が嫌いな映画のDVDは見たくないといったのに、自分が嫌だと思っていることを、そうやって思い出しては、自分で嫌な氣分になっちゃってる・・・。おかしいと思わない?」
息子:「うーん。そうね。」
私:「嫌なことを思い出して、ケヴィンはハッピーかい?」
息子:「うーうん、ハッピーじゃない。」
私:「じゃぁ、どんなことを思い出したらハッピーになる?」
息子:「楽しいこと。」
私:「そうだよね。楽しいことを思い出したら、ハッピーになるよね。ハッピーな方が、ずっといいでしょ?」
息子:「うん!」
私:「ケヴィン、これからは嫌なことがあるかもしれないけど、思いだしちゃ駄目だよ。だって、嫌なことを2度、見ることになるんだから。そんなのおかいよね。わかるだろ?」
息子:「うん!」
私:「じゃぁ、これからはどうすればいいかな?」
息子:「嫌なことは忘れて、ハッピーなことばっかり思い出すようにする!」
わたしたちは、一度観た映画がつまらなかったり、面白くなかったとき、それをビデオレンタル店で借りるなんてことは絶対にしないと思います。
それとは逆に、面白かったものは、後でレンタルしたり、DVDを買ったりします。
つまり、嫌なものは二度と見ないで、楽しかったものはお金を払ってまでもう一度観ようとするのです。
映画については、そうしているのに、人生においては楽しかったことよりも、嫌なつらい思い出ばかりを反復して思い出します。
これって、本当におかしなことですよね?
今回の日記で、あなたが1つでも氣づきを得ることができたら、嬉しいです。
日本の方の中には、アメリカ人をして「アメリカ人は、自己主張をする人が多い。それはアメリカの教育が、個を尊重し、自己主張するような教育をするからだ」と考えている人が多いようです。
先日も、わたしのコーチングの生徒から同様の質問がありました。
実は何を隠そう、わたしもアメリカに移住する前は、同じように考えていたものです。
でも、15年近く暮らしていると、そして子供たちがアメリカの学校に行くようになって、アメリカの実際がわかるようになってくると、わたしが勝手にイメージしていたものが、どうやら違うということに氣づいたのです。
子供をアメリカの学校に行かせているわたしの目から見たアメリカの教育ですが、この教育方法で自己主張する人を育成できているか?といえば、わたしははなはだ疑わしく思っています。
なぜなら、アメリカで日本以上に「自己主張しなさい」というような教育はなされていないように思うのです。
むしろ、昨今の日本の方が「個が大切。もっと自己主張しなければならない」と教えているように思えてなりません。
そもそも、同じアメリカ内でも教育方針は学校でそれぞれ違うし、かつ教師によっても独自の教育方針をもっていますからね。
なので一概に、アメリカの学校が全体よりも個を重視して、自己主張できる人材を育てているとは思えません。
また、教師のレベルは、残念ながら一般の公立校は、非常に低いといわざるをえません。
それと、アメリカでも全体(他人)への配慮を教えることの方が多いと思います。
また、子供たちをみていて、学校の教育によって彼らが自己主張をするように育っているかといえば、そうではなく、家庭生活の中で成長するにしたがい自分を主張することを覚えているように思います。
授業参観もこれまで実際に数回訪れて教育現場を観てみましたが、やはり、自己主張できる子供を育てるための特別なことをしているかといえば、そうではありませんでした。
実際に、アメリカ人の多くは、人前でスピーチをするのを恥ずかしいと思うようです。
日本の方がイメージしているアメリカ人の外交上手、スピーチ上手、堂々とした振舞いというのは、ステレオタイプのものであり、大半のアメリカ人とは異なります。
もちろん、そういう人もいるにはいますよ。
でも、それは日本でも同じですよね。
まぁ、どちらかといえばアメリカ人のほうが、人前で堂々と話せるタイプの人の割合が多いとは思います。
それからスピーチが上手な人だけをみれば、やはりアメリカ人のそれのほうが日本人よりも上手だと感じます。
特に国際政治の舞台での政治家の振舞いをみれば、アメリカの政治家のほうが日本の政治家よりも、立ち居振る舞い、スピーチが堂々としていますね。
また、それは政治家だけでなく、経済界、芸能界、スポーツ界でもいえるでしょう。
では、そういう国際舞台でどうして日本人が目立ず、立ち居振る舞いが堂々として見えないのか?
それは、語学という要因もあるでしょうが、それ以上に日本人の中にある1つの価値観が大きいと、わたしは個人的に思っています。
しかも、その価値観は、本来の意味とは異なる形で、つまり誤解されて受け取られていて、それを正す必要があるのではないかと思っています。
では、その日本人が世界の舞台で堂々としていない、個の輝きを失わせてしまっている価値観とは何か?というと。
それは、「恥の文化」だと、わたしは個人的に思っています。
ただし、誤解しないでくださいね。わたしは正しい意味での「恥の文化」は、すばらしいものだと考えています。でも、どうもわたしたちの多くは、この「恥」という言葉の意味のとり違いをしているように思えてならないのです。
説明しますね。
わたしたち日本人が「恥」という言葉を、文字だけでとらえたとき、直観的にイメージするのは「恥ずかしい」という意味合いではないでしょうか。
そして、わたしたちはできるだけ「恥ずかしい」という想いをしないように心がけますし、また世間もそれを軽蔑するような考えがあるように思うのです。
例えば、教育の現場でこういうのがよく見られます。
先生が「この問題、誰かわかる人?」と尋ねると、生徒はわかっているにも関わらず、手を挙げるのを躊躇します。
その理由は「たぶん答えはこうだと思うのだけれど、もし間違っていたらどうしよう・・・」と考えるのです。
それから「手をあげて答えること自体が恥ずかしい」という考えもあります。
こうした考えは、「恥ずかしいことをしてはいけない」という価値観から生まれます。
それは、「恥ずかしい」が、人とは違うことをしてはいけない。人より目立ったことをしてはいけない、間違ったことをしてはいけない。それは、恥ずかしいこと=やってはいけない誤りだという考えに立脚しています。
それから、先の例で、実際に手をあげて答えたことが間違っていた時、周りの反応はどうかというと。
他の生徒は間違った答えを言った生徒に対し、笑います。
なぜ笑うかといえば、「間違っているのに、手をあげて答えた」「手をあげたことで、目立つこと(人と違ったこと)をした」ことへの非難です。
根本にそういうことをしてはいけない、つまり目立つこと(恥ずかしいこと)をしてはいけないという考えがあるからです。
それと、教師が間違った答えを言った生徒に対して、ちょっと皮肉ったコメントを返すことがありますね。これが、手をあげて積極的に答えるという生徒の意思をくじかせる要因になってしまうと思うのです。そういうことがあると、そういう考えがますます生徒間に浸透していきますから、教師の方には氣をつけていただきたいです。
こういうとき、アメリカではどうかといえば、教師は「Good try(惜しいな。でも、よい発言だったよ)」と言います。
他の生徒たちは、間違ったことをまったく問題にしません。間違った答えを言った生徒を嘲笑することは一切ないのです。
これは、教育として「教えている」ものではなく、アメリカ社会にある価値観からきているものです。
間違った発言をしたとしても、そういう態度をとらなければならないと教科書で教えていません。それは逆の意味で日本でも同様ですよね。
家庭で、教育の現場で、社会生活の中で、そういう価値観が普通になっている文化があるということです。
日本では「恥」という文字を「恥ずかしい」と連想付をしてしまっているため、本来持つ意味を正しく理解せず、現在のような積極性を損なう文化をつくってしまっているように思います。
わたしはつぎのように考えます。
本来の「恥」とは、自分ができることであるにも関わらず、それを自発的に行動することができないこと。
つまり、その「行動を起こす勇氣をもたない」こと。
また、自分の信念を他人が非難することに対して、恐れない勇氣をもたないこと。
それを「恥」と思うことが、本来の「恥の文化」です。
また、周り(他人)に対して「恥」と思うのではなく、自分自身に対して「恥」と思うことなのではないかと